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いざ温泉②

俺が選んだのは、隠れ家的な落ち着いた老舗旅館だ。 ズラリと並ぶ出迎えの仲居もおらず、 他の客達と顔を合わすことのない、全くのプライベートな空間だ。 詩音も恐る恐る部屋に入ってきて、うわっ!と声を上げた。 それもそのはず、数寄屋造を模した部屋は美しく、まるでどこかの重要文化財のような雰囲気だった。 障子を開けると、目にも鮮やかな新緑が夕日に照らされて輝いていた。 寝室はキングサイズのベッドで、部屋に違和感なく馴染んでいる。 「本当に…ここに泊まるんですか?」 気後れしている詩音をそぉっと抱き寄せ 「あぁ。何もせずにゆっくりとしような。」 「でも…仕事が…」 「大丈夫だ。中田が段取りしてくれてる。 俺の方も昨日一週間分終わらせてきたから気にするな。 さぁ、お腹空いただろ?準備ができてるから食べよう!」 詩音は、はぁっと小さなため息をつく。 それに気付かぬフリをして、豪華な膳の前に座った。 「すごいな!どれも美味そうだ。 ここの料理は地元の物にこだわってるらしいぞ。 さあ、詩音、俺の膝においで!早く、早く! いただきます!」 見るからに嫌そうな詩音を無理矢理膝に乗せる。 「…いただきます。」 「はい、あーん…どうだ?美味いか?」 「…はい、美味しいです。」 その後…詩音に話しかけても一言で会話は終了。 無言。ひらすら無言。 それでもめげずに、せっせと詩音の口元に一口サイズに切ったものを運ぶ、親鳥の俺。 こんなことでは挫けない。 頑張れ、俺。

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