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なくなった香りside:詩音⑧

ぴくぴくと瞼が動いて、ゆっくりと継の目が開いた。 微笑んだ継に抱き込まれて、じんわりと暖かさが染み込んでくる。 微かな継の匂いが喜びを纏い始めた。 『愛してる』と連呼され、顔中にキスが降ってくる。 驚いて固まる俺にお構いもなく。 匂いが戻りつつある。 継の匂いが僅かずつではあるけれど、段々濃く感じられる。 抱かれたまま、また箸を口元へ運ばれる。 子供のようだけれど、何だか安心する。 目一杯甘えているようで。 まともに食べれてなかったせいもあるのだろうけど、今朝は完食できた。 継の喜びようといったらなかった。 しばらくしてから、露天風呂へ連れて行かれた。 朝靄に霞む山並みが遠くに見える。 鳥の鳴き声が其処此処で聞こえる。 爽やかな風が吹くたびに揺れる葉の擦れ合う音が心地いい。 朝日が木々の間から漏れ見えて、キラキラと輝き、川面を空間を揺らしていた。 この大自然に継と俺の二人っきり。 この穏やかでゆったりと流れゆく時間を大切な人と過ごせるなんて…何て贅沢なんだろう。 ぽふっと継の胸に背中を預け、目を閉じた。 継は俺を抱きしめながら「愛してる」と呪文のように繰り返す。 耳に馴染んだその言葉は炎となって、俺の頑なに凍った心を溶かしていった。 「詩音…愛してるよ…」 ぶわりと舞う継のフェロモン! あぁ、この匂い! 俺からも!いつもの継を思う甘い匂いがっ! 「継…俺も…愛して…います…」 匂いと俺の言葉に驚いた継は、身体を反転させ俺を真正面から見つめると 「詩音、俺の…俺の匂いがわかるか?」 「…はい、いつもの…継の…」 それだけ言うと、愛おしい夫の胸に飛び込んだ。 振り撒かれ舞い散る二人のフェロモン。 風に舞い踊り辺り一面に広がっていく。

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