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伊織さんの夫夫生活⑨

継だ… 朝エレベーターで別れたっきりの夫。 髪も乱れて、顔色も悪い。 俺を見つけると、悲しげに、でもちょっと笑みを浮かべて名前を呼んだ。 「…詩音…」 胸がきゅうっと締め付けられた。 たった一言名前を呼ばれただけなのに。 いつもの継らしくない、おどおどとした態度と『ごめんなさい』の匂いが溢れている。 その匂いを嗅いだら泣きそうになった。 俺は動けなくなり、その場に突っ立っていた。 「ほら、詩音君、こっちにおいで。 継君、我慢できなくて来ちゃったんだって。」 伊織さんに呼ばれて、ゆっくりと近くに寄って行った。 「詩音…ごめん。許してほしい とは言わない。 でも、謝らせてくれ。 この通りだ。」 継が突然跪いたと思ったら頭を下げて土下座してきた。 ええっ!? そのまま動かない継。 おろおろする俺。 見兼ねた伊織さんが 「詩音君、継君、反省してるから…ね? 継君、詩音君だってもう、わかってるから… 頭に血が上っちゃうよ…ほら、頭上げて。」 そう言っても、継は動こうとしない。 伊織さんが、とん っと俺を継の前に突き出した。 伊織さんを見ると『わかってるでしょ』と無言の圧力が…頷いて、そっと継の肩に触れて言った。 「継、頭を上げて…もう、いいから…」 はあっ と息を吐いて、ゆっくりと頭を上げた継の顔色はまだ悪かった。 俺のせいだ… 「詩音、ごめんな…」 その言葉に、ぶわりと涙の膜が張って、ぽろりと落ちた。 「しっ、詩音!?」 ギュッと首根っこに、しがみ付いた。 大好きな匂い。 半日しか離れてないのに。 俺の方が継が足りない。継を補充させて。 継は、しがみ付く俺の背中を摩りながら 「伊織さん、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした。 このお礼は後程。」 「いいえ、どう致しまして。 とても楽しいひと時でしたよ。 ありがとう、詩音君。」

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