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8僕が絶対守るから

 次の日、起きたのはもう朝というには遅い時間だった。早朝に伊織がどこかへ電話をかけたりなんだりしていて目を覚ましはしたが、「寝てていいよ」と伊織が笑うものだから、深く考えずに二度寝した。 「あ、おはよう」  俺が起きたのに気付いたのか、伊織はベッドに座って、俺の額に軽くキスをした。そのくすぐったさに少し笑ってしまう。 「伊織、朝に何してたの?」 「ちょっとね。君に関係……なくもないけど、君は気にしなくて大丈夫だから」  その意味深な言葉に首を傾げつつ、そっか、と俺は頷いた。  伊織に昨日、お父さんに言われたことやトラウマを洗いざらいぶちまけて慰めてもらったせいか、心が軽い。また会いにくる、と言われたのだけが気がかりだが、たぶんどうにかなるだろうと思う。もしそうなったら僕が守る、と伊織に言われたし。  外が暗くなった頃に帰るからしばらく家にいさせてと言われたので、しばらく伊織とだらだら過ごした。そう言ったときの伊織の顔がやけに真剣だったのは気になったが、すぐに忘れてしまった。  そうこうしていると、三時ごろだっただろうか、唐突に部屋のインターホンが鳴った。 「あ、誰か来た」と言いながら立ち上がろうとしたが、すぐに伊織に制された。それから伊織は「黙って座ってて」と神妙な顔つきで言い、テレビを消した。少し戸惑ったが言う通りにすると――ドンドンとドアを叩く音が聞こえ、次いで声が微かに聞こえた。「雫? いないのか?」  血の気が引く。その声はお父さんのものだった。まさか、昨日の今日で来るなんて。胃のあたりがぐるぐるとして、戻しそうになる。 「雫。隠れて」  伊織はそう言うと、立ち上がって悠然とドアの方向へ歩いて行った。 「い、伊織……! 相手は何するか分からなっ――」  慌てて伊織を諌めようとした言葉は、途中で宙へ消えた。――振り向いた伊織は、にっこりと笑っていたのだ。 「大丈夫だよ。僕が雫を守るから」  ああ、俺は知っている。伊織のこの綺麗な笑顔は、伊織が本気でキレている時にしか見せないものだということを。それを見た俺は、指一つ動かせなくなった。  そして伊織は、チェーンをかけずに無防備にもドアを一気に開いた。俺は物陰からひっそりとその様子を伺っていた。 「ああ、しず――」俺を出迎えようとしていたのだろう彼は、途中で怪訝な顔になった。「君は……昨日の」 「ええ。また会いましたね」  伊織に警戒心を抱かなかったのか、彼は愛想のいい笑顔を見せた。 「雫のお友達だよね? 雫と遊んでたの? 雫は今どこにいる?」 「さあ、どこでしょうね」  彼の表情が少し曇った。 「……雫は今、どこかに出かけてるのかな?」 「さあ。僕があなたにそれを教えると思います?」  彼の表情がさらに曇った。そして何かを言い募ろうとしたが、伊織はそれをすっと手で制した。俺のいる場所からは見えないがきっと、ゆったりと微笑んでいるんだろう。 「大江兼助。株式会社オーエテクノロジーズの社長。バツ2の独身で交際中の女性はなし。現在会社は軌道に乗っていて、六本木に住居を構えている――違いますか?」  彼の顔がすっと青ざめたのが見えた。俺だって怖い。だって……伊織が彼の存在を知ったのは、昨日だったはずなのに。 「どうして、それを……」 「ふふ、普段から懇意にしている探偵がいるんですよ。たった数時間で、ここまで調べてくれました」  場違いなほどにゆったりとした声。それが逆に怖い。 「あなたが数年前、雫に何をしたのか聞きました」  伊織の言葉を聞いて、彼は目を瞬かせた。それから、あははっと拍子抜けしたように笑った。 「何をした……って、ああそういうことか。……親子が愛し合うことくらい、今時珍しいものでもないだろう? ましてや義理の親子、近親相姦には当たらない。それとも君は、他人の恋愛に横槍を挟むのが好きなのかな? さあ、分かったら雫が今どこにいるのか教えてくれ」  鳥肌が立つ。ひたすらに気持ち悪かった。伊織はそれを聞いて、ため息を吐いた。 「あなたは随分とおめでたい頭をしているんですね。あなたのやったことは紛れもないレイプですよ」  そして、煽るように伊織は続ける。 「幼い息子を力ずくで犯すなんて、いい年した大人のすることじゃないですよね? 雫はあなたのことがトラウマだって言っていました。ここまで言ったら分かりますよね? あなたのそれは恋愛じゃなくて、一方通行の思い込みです」  そして伊織は鼻で嘲笑った。俺は何を思うよりもまず先に、違和感を感じた。相手を煽って嫌味なことを言うなんて、伊織のやり方じゃない。  それを聞くと案の定、彼は顔を引きつらせた。 「……君に何が分かるって言うんだ」  余裕ぶろうとしているが、隠しきれない怒りが滲んでいる。そんな彼に、伊織は馬鹿にしたような口調で言った。 「分かりますよ。僕は雫の恋人です」  彼はその言葉を聞くや否や、さっと顔色を変えた。 「……ふざけるな! お前が雫の恋人? そんなはずはない! 雫は俺のものだ! 雫は初めて出会った日からずっと俺のものなんだ……! 非情な運命によって引き裂かれてしまったが、それでもずっと想いあっているんだ! それなのになんだその言い分は!」  俺は思わず口を押さえた。込み上がってくる酸っぱいものを何とか飲みくだす。気持ち悪い。あんなことをしておきながら、こんなに美化することができるのが信じられない。 「……気持ち悪い、この性犯罪者が」  伊織が吐き捨てた。心底おぞましいものを見たような声だった。  その言葉が、元々キレやすい彼の神経を思いっきり逆撫でしたんだろう。彼は鬼のような形相になって「ふざけるなッ――!」と声を裏返して伊織を怒鳴りつけた。そして伊織に殴りかかってその勢いのまま馬乗りになり、首に手をかけた。  彼は昔からそうだった。怒るとすぐに手を上げ、首を絞めてくる。背筋が凍った。伊織が危ない、どうしよう、俺のせいで――。 「いお――!」  後先考えずに飛び出そうとしたが、足が止まった。――首を絞められそうになっているのに、伊織はしたり顔でにやりと笑っていたのだ。それは獲物が罠にかかった瞬間の猟師のような、獰猛な笑みだった。  そして伊織は、そんな危機的状況にも関わらず落ち着き払って、パンパン、と二度手を叩いた。すると、 「確保ーっ!」  何人かの野太い声と重い足音が聞こえる。次の瞬間、彼は何人かの警官に手を捻り上げられ、うつ伏せにされていた。 「大江兼助、お前を殺人未遂で現行犯逮捕する」  一人の警官がそう言いながら彼に手錠をかけた。あまりに劇的な展開で理解ができなかった。俺でもそうなんだから、彼はなおさらだろう。案の定、ぽかんとした間抜けな顔をしていた。  伊織はちらりと俺に視線をやった。もう出てきても大丈夫だと言うように。恐る恐る出て行くと、彼と伊織の会話がさっきよりもはっきり聞こえた。 「なんっ……何で、こんな……」 「改めて自己紹介させてください。僕は小深山グループの代表取締役の一人息子、小深山伊織です」  場にそぐわないほどの悠々とした声。彼はそれを聞いて、目を見開いた。 「小深山グループって、あの……?」 「ええ。その通りです。……社長のあなたなら、権力を持つことの意味をよくご存知ですよね?」  伊織がちらと警官に目をやる。それは暗に、伊織がこの警官たちを動かした、と言っている。  そう考えると、腑に落ちることがいくつかある。今日の早朝、どこかに電話をしていたこと。何をしていたのか聞くと、君に関係はあるが気にしなくていい、と言ったこと。彼と話すときの伊織がやたらと彼を煽っていたこと。それもすべて、こうなるように仕向けていて――。  怒りが徐々に絶望に変わっていった彼だったが、ふと視線を上げ、俺と目が合った。すると彼は途端に顔を破顔させた。寒気がする。 「雫……! お父さん何か勘違いされてるみたいなんだ、お前から何か言ってくれ……!」 「……や、やだ」  その笑顔がおぞましくて、俺は後ずさりした。身体が勝手に震えだす。伊織は俺を振り向いて、大丈夫だよ、と安心させるように言った。それから彼に向かって、のんびりと言った。 「殺人未遂は、長くてせいぜい懲役五年。裁判で殺意が認められず傷害罪になれば、三年程度。ですが執行猶予はつかないでしょうね。なんせ敵に回した相手が悪かった」 「……何が、言いたいんだ」  その問いを待っていたかのように、伊織はにっこりと笑った。とても殺されかけた後とは思えない、楽しげにすら見える笑みだった。 「それだけあれば、会社一つを潰すなんて簡単にできる、ってことです」  彼は息を呑んだ。そんな彼に追い打ちをかけるように、伊織は低い声で凄んだ。 「――戻ってきたとき、お前の会社がまだあると思うなよ」  それから神妙な顔つきになって、伊織は警官に頭を下げた。 「すみません、ありがとうございます。じゃあよろしくお願いしますね」  そして伊織は、何事かを警官の耳元で囁いた。……何を囁いたのかは、想像したくない。  警官も彼もパトカーに乗り、サイレンと共に去っていった後、伊織は俺をぎゅっと抱き締めて、言った。 「雫。君のことは、僕が絶対守るから――」

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