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8恋愛恐怖症の治し方
千紘は目を見開いて絶句した。しかしここで話は終わらない。
「親父は堪んないよな。死んじゃったから、母さんを責めようにも責められないし。それに何より、愛してる人の心も存在も、永遠に喪っちゃったんだから。
それで、そのやり切れない気持ちの矛先が、俺に向いた。
さすがに小学校低学年の子供に向けるのは気が咎めたんだろうな。あと俺の顔が母さんに似てたから、それも多分あった」
千紘は拳を握って考え込んだが、やがて小さく聞いた。
「……虐待?」
俺はただ頷いた。千紘の視線は床に落ちて、揺れていた。
「……だから、その時はただ強くなりたかった。黙って殴られなくて済む強さが。それで俺は、中学の時に非行に走ったんだ」
「……そうか、それで」
納得したように呟く千紘。だが視線は、未だ床に落ちたまま。
「それから殴り合いの喧嘩を何度もした。それで分かり合えたら良かったんだけどな。今じゃ一切口を利かないよ。親父は別のとこにオンナを作ってて、子供まで作っちゃってさ。
……それでも、家のローンを払い切ってくれたし、生活費と学費も送ってくれるから、感謝はしてる。全部捨てて『死』に逃げた母さんよりはずっとマシだしね」
確かにそれは本音だった。優しかった親父を知っているからこそ、なのかもしれない。
平太はそれを知らない。平太にとっては、俺と殴り合いの喧嘩を何度もして、そして家を出て行った赤の他人なのだろうが。
空気が粘度を増して、まとわりつくようだった。呼吸の音しか聞こえない。
そりゃそうだろうな、とは思う。こんな重い話を思いがけなくされちゃ、反応に困るだろう。
だからそれを吹き飛ばすように、わざと明るい声を出した。
「だから俺さ、本気の恋愛がすっごい怖いの。いっくら自分が相手を好きで、愛し合ってるなんて思ってても、いつか親父みたいに裏切られるかもしれないしさ?
それに、恋愛って人をおかしくするし。普通考えないだろ? 小さい子供がいるのにそれを捨てて自殺なんてさぁ。恋愛のせいで優しかった親父もいなくなっちゃったし」
そして、自嘲気味に笑った。
「それで本気の恋愛はしないように避けて、でも寂しいしやっぱ誰かに愛されたい、なんて思ってたらこんなクズになっちゃった訳よ。ほんっとどうしようもないよなぁ、俺」
親のせいで、家庭のせいで、というには、俺はあまりにも多くの人を傷付け過ぎた。
俺は本気じゃなかったにしろ、相手は本気だったかもしれないのに。
「ま、俺は母さんとも親父とも違うから、未成年の弟を置いて逃げたりなんかしないけどね? あいつはそれを望んじゃいないかもしんないけど、俺はちゃんとあいつが成人するまでは見届ける」
そう独り言のように呟くと、千紘は俺が肩にかけた手を強く掴んで、絞り出すように問うた。
「……何だよ、その言い方。成人するまで、って――したら、お前はどうするんだよ」
――どうするんだろうか、俺は。
「そうだなぁ、死のうかな」
無意識のうちにそう呟いていた。
俺が死んで悲しむ人間なんて平太くらいじゃないだろうか。いや、平太も悲しんでくれるか分からないな。
「何言ってんの、お前」
呆然と千紘は呟いた。しかし少し後に、激昂したように胸倉を掴みあげられた。
「ふざっ……けんなよ誠人! 何でっ……何で、お前が死ななきゃ……ッ」
俺は千紘の顔を見て、言葉をなくした。
「……何で」
ようやく絞り出した声は、掠れていた。何で、何で俺じゃなくて――
「お前が、泣いてんの」
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