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9決して覚めない夢であれ

「しかしまあ、随分とお楽しみだったようで。……家帰っていきなりアンアンギシギシ聞かされるこっちの身になれっつの」  兄貴がうんざりといった様子で呟きながら、白飯をかっ込んだ。 「俺はずっとその立場だったんだよ、思い知ったか。ていうか、わざわざいちゃついてる部屋の中入ってきて飯作れって何? 嫌がらせかよ」  舌打ちをしながら噛み付くと、兄貴はいけしゃあしゃあと答えた。 「今週の飯当番は平太だろ。……まあ、嫌がらせがなかったって言えば嘘になるけど?」 「クッソ……自分が今日千紘さんと会えないからって八つ当たりしやがって……」 「うるさいなぁ、八つ当たりじゃないって」  とはいいつつも、バツの悪そうな表情の兄貴。 「図星かよ。で、千紘さんどうしたんだよ」  尋ねると、兄貴は肩を竦めて答えた。 「レポート書き上がんないらしくて死にかけてる」 「兄貴が終わってて千紘さんが終わってねえの? おかしくね?」 「大学が一緒って言っても学部違うからね。千紘の理工学部の教授が鬼なんだって」  そんな話を兄貴としていたが、ふと真空さんが一言も発さず黙々と箸を口に運んでいるのに気が付いた。もしかしたら話に入れなくて困っているのかもしれない、そう感じ「真空さんどうしました?」と尋ねた。  すると、少し経ってからはっとしたように「悪い、なんて言った?」という返答があった。どうやら、会話に入ろうともしていなかったらしい。 「いや、全く喋らないからどうしたのかなって。あ、こいつクズ人間なんで気ぃ遣わなくていいですよ」  兄貴を親指で示しながら言うと、 「平太君、こんなに立派で格好いいお兄様に対して、その態度は酷いんじゃありません?」  そう冗談めかして兄貴に返された。気色悪かったので一発殴ろうとしたらすぐさま片手で拳を掴まれ、勝ち誇ったような笑みを浮かべられた。それを見て俺は、後で蹴り飛ばすことに決めた。 「気を遣ってた訳じゃない。夕食が美味しかったからそれに集中してた」  特に偽る様子もなくそう言った真空さん。俺が作ったので褒められたのが嬉しく「本当ですか?」と聞き返した。 「ああ、毎日食べたいくらい美味しい」  笑みを薄く浮かべて真空さんは答えた。  毎日食べたい、その言葉に他意はあるのか考えていると、真空さんは焦ったように付け加えた。 「あ、同棲したいとかそういう意味は一切なくて、ただ本当に美味しかったから……いや、もちろん同棲なんてごめんだって意味じゃないんだが……だからって、ええと、その……」  しどろもどろになりながら言い訳を重ね、終いには赤くなって俯いてしまった。 「お互いに大学生になったら、考えてみません?」  真空さんはそれを聞いて、勢いよく顔を上げた。真意を汲み取ろうとしているのか、瞳が揺れた。しかし、真っ赤な顔で笑って真空さんは呟いた。子供みたいに無邪気な笑顔だった。 「……約束、だからな」 「はい、約束です」  俺が高校で馬鹿みたいに思い通りにならなかったのは、真空さんと出会ったことが原因なのかもしれない。否、きっとそうだろう。  真空さんと出会ったことによって、『地味で平凡な学園生活』が消え去ってしまった。それは恐らく、正しいに違いない。  俺が真空さんと出会わなければ、真空さんは小宮山先輩と上手くやっていて、俺は望み通り平凡な生活を送れたのかもしれない。  だとしても、俺はもう手放せない。だって、既に知ってしまったから。知ってしまって、惹かれてしまったから。  今更誰に間違っていると言われても、手放せるはずがない。  こうなったらこのまま、死ぬまでこの夢が覚めなければいいのに、俺はそう思った。きっと真空さんも、同じようなことを思っているはずだ。

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