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6こころの真ん中には
「え?」
拍子抜けして彼の顔を見ると、彼は感心したような顔でその本の表紙を見ていた。
「だってこれ、高校生の教科書とかに載ってる本だろ? すげえな、俺絶対最初のページで投げ出すぜ」
その感心したような顔でひっくり返して裏表紙を見ると、開いてみていい? と彼は尋ねた。
呆然としながら頷くと、彼は最初のページを開き、苦笑いを零した。
「うわ、もう無理だ。言葉使い難しくて読めねえ。お前よくこんなの読めるな」
そんな顔のまま、彼は「ごめんな、ぶつかっちゃって」と謝りながら本を差し出した。
「……気持ち悪くない? こんな本読んでて」
気付けば、口からそう滑り出していた。言葉にすると、それはなお心を抉った。
しかし彼は、本気で理解できないように首を捻った。
「何で? 夏目漱石読めるってすげえだろ。むしろ尊敬する」
俺は何度か瞬きをした。そして少し後、慌てて俯いた。そのまま顔を上げていたら、涙が零れそうで。
今までの、クレヨンで真っ黒に塗り潰されたような思い出が、モノクロ写真みたいに光のなかった世界が、一気に鮮やかな色を取り戻したような気がした。
自分の好きな本を読んでいても、いいんだ。体を縮こませて教室の隅にいなくても、いいんだ。俺は――俺の生きたいように生きていても、いいんだ。
彼が差し出した本をおずおずと受け取ると、彼の声が俯いた頭の上から降ってきた。
「かっこいいと思うぜ、こんな難しい本読んでて」
顔を上げると、彼は笑っていた。暖かくて優しい笑い方だった。
顔を上げてちゃんと見た彼の顔は、息を呑むくらいに綺麗で、かっこよくて。こんなにかっこいい人は、今まで見たことがなかった。
胸が思い切り締め付けられて、顔が一気に火照るのを感じた。俺はこの時、一目惚れをしてしまったんだろう。
「平太ぁ、何やってんだよ」
「朝礼始まるっての」
そう声をかけられて彼は、「今行く!」と答えてからそっちへ駆けて行った。
慌てて見た彼の上履きに書いてあった名前は、明塚だった。
「明塚、平太……か」
ぽつりと口にした。多分この名前は一生忘れないだろうな、と思った。
それから朝礼で紹介されて、自分のクラスに行って、そこに明塚がいた……なんて甘い展開はなくて、結局その一年間、明塚と話したのはその時っきりだった。
だけど俺はいつも目で追ってしまって、明塚がどんな性格だとか、どんな人と一緒にいるかとか、誕生日はいつだとか、気付けば色々なことを覚えてしまっていた。
もちろん、そんなことをしても俺に望みはない。望み云々の前に同性だし、もし異性だったとしても間違いなく望みはないだろう。
明塚は今とは違って、学校中のアイドル的な存在だった。誰に対しても明るく紳士的で、要領が良いから何でもできて、その上整った顔、となればモテないはずがない。
俺は、明塚のおかげで昔のようにまた明るくなれて、友達だってたくさんできたし、告白だって何度かされた。
だけどやっぱり、心の真ん中に根を張っているのは、いつだって明塚だった。
きっと明塚は、俺の名前も顔も一切覚えていない。それでも、顔を見れるだけで俺は幸せだった。
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