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1受験と仕事と卒業と
「あーセックスしたい…………」
窓の外を見つめながらぽつりと呟くと、車を運転しているマネージャーは苦笑した。
「明塚くん。それ外では絶対言わないでよね?」
「分かってますよ、イメージ崩れますもんね。えーと、現役高校生の王子様系イケメンでしたっけ? あとは、芸能界に彗星の如く現れた天才高校生、とかそんなこと書かれてましたよね、雑誌で……ふふっ」
思い出して、俺は思わず吹き出してしまった。
誰だそれ。というのが正直な感想だった。生まれてこのかた「天才」と言われたことなんてないし、まさか俺が言われることはないと思っていた。
それがどうだ。今じゃ鬱陶しいくらいに天才だともてはやされている。正直に言って、もうどうしていいか分からない。
俺は自己評価が低い方ではない、むしろ高めではないかとは思うが、それでも「こんな俺が天才と呼ばれて本当にいいんですか?」と恐縮してしまう。
だってそうだろう。つい数ヶ月前までは普通――ではないかもしれないが、とにかくそこら辺にいるような高校生だったのだ。恋人と友達とそれからゲームのことくらいしか考えない馬鹿な高校生だ。
それが、ねぇ……と考えながら、俺はマネージャーの窪田さんに話しかけた。
「知ってます? 昨日つい出来心でエゴサしてみたんですけど、白馬の王子様みたいだって言われてたんですよ? もう意味分かんないんですけど」
「いやぁ……僕は気持ちは分かるけどな。喋らなかったらいいんだよねぇ、君は」
窪田さんはハンドルを右に切って曲がってから、苦笑した。
「明塚くんは喋ると残念だよね。すごく残念」
「いやいやそんなことないですよ、普通の高校生です。男子高校生なんてヤることばっか考えてますよ、普通」
「そうかもしれないけど……君の顔からその言葉が出るとぎょっとするんだよ」
窪田さんのその言葉を聞いて、そうかもしれない、と思った。
同じように十代のアイドルや俳優と共演することは多くあるのだが、一度も下ネタを振られたことがない。というかむしろ、下ネタを話してても俺が来るとピタッと止めて話を変える。
一体俺を何だと思ってるんだ。
女の人との経験もあるからそれなりに下ネタはついていけるはずだが。下ネタ一つ言わないようなキャラに思われていると渉なんかに言ったら、しばらく笑い転げそうだ。
「明塚くんは彼氏がいるんだっけ」
「そうです。でも向こうが受験なんで、全然会ってなくて。十ヶ月近くヤってないんですよ? やばくないですか? もう限界……ヤりたい…………」
俺は再び遠い目になった。十ヶ月もしなかったことなんて初めてだ。こんなに左手のお世話になったのも人生初。
あまりにも頭がとんでもないことになっていたのか、真空さんの第一志望受験日にお守りを渡すために会った時、まず最初に下半身に目がいった。真空さんのお尻は服越しからも引き締まっているのがよく分かるのだ。ああ触りたい……ってそうじゃなくて。
俺はその日のことをふと思い出した。
その日は仕事が朝早くではなかったため、俺は真空さんの第一志望校の最寄駅に急いでいた。電車には乗れないのでタクシーでだ。
駅から少し遠いところで止めてもらって、俺は慌てて真空さんに電話をした。
『……もしもし?』
真空さんの不思議そうな声が聞こえた。少し低い落ち着いた声だ。ああ、この声、癒される……と俺は思わず笑顔になりながら、問いかけた。
「真空さん、今どこですか?」
『今か? 今は駅の改札前だが……』
「駅? 試験会場の最寄り?」
ああ、という真空さんの返事を聞いて、俺はホッとして返事をした。
「少しそこで待っててくれます?」
少し間が空いたが、真空さんは「分かった」と返答した。
俺は電話を切って、タクシーの運転手に声をかけた。
「すみません、すぐ戻ってくるので待っていてもらってもいいですか?」
「いいですよ。戻ってらっしゃった後にスタジオに向かえばいいですか?」
「お願いします。わざわざ寄り道をしてくださってありがとうございます……」
今日は思ったより道が混んでおらず、真空さんに今まで渡しそびれていたものを渡すなら今日しかない、といきなり道を変更してもらったのだ。運転手は急な変更にも関わらず快く応じてくれた。
そのことに対して頭を下げると、初老の運転手は笑っていた。
「テレビでの印象通り、礼儀正しい人ですね」
そんな、恐縮です、と慌てて言うと、彼はいやいや、と笑ってかぶりを振った。
「私はよく芸能人の方を乗せるんですがね、礼を言わないのが当たり前、って方がもう多くて多くて。……うちの娘が大ファンなんですよ、あなたのこと。いやぁ、これで娘に明塚さんは本当に良い人だったよ、って自慢できます」
朗らかに笑う彼を見て、俺まで嬉しくなった。
実のところ、プライベートの時間は減るわ仕事での人間関係は面倒だわで、はやくもこの業界に入ってきたことを後悔し始めていたのだ。
こんなに早く売れると思っていなかったから、まだ何も心構えができていなかった。どこの誰がデビュー直後から売れ出すと思うだろうか。下積み時代が少なく見積もっても数年はあると思ってた。
だが、こういう言葉を聞くと、頑張ろうかな、という気になる。他人の評価なんて気にしたことがなかったのに、案外他人から褒められるのは嬉しいものだと知った。
「ああ、引き止めてすみません。早く彼女さんのところへ向かってください」
「か、彼女――」
「大丈夫ですよ、もちろん私の胸にしまっておきます」
俺は曖昧に笑って、車から出ることしかできなかった。
そうだ。普通は「彼女」なのだ。通っている高校のせいで何とも思わないが、俺は確実にマイノリティで、時には奇異の目で見られる。
そのことをすっかり忘れていた。普通は彼女で、同性なんて結婚すらできない。なら俺は、このまま付き合うことで真空さんの未来を奪うことになりかねないんじゃないのか――。
そう悶々と考えながら駅まで走っていたが、真空さんの後ろ姿を見た瞬間、全て霧散した。
未来なんて知ったことか。もしも未来を奪うことになるのだったら、その奪った未来よりもずっと幸せな未来を描けばいいだけの話だ。
それに俺は、後ろ姿を見るだけでここまで幸せになれる人に出会ったことがない。この先も絶対ない。俺には真空さんしかいないのだ。
……それにしても、ジーンズを履いている真空さんの腰から太腿にかけてのラインがすごく綺麗だ。触りたい。ちょっと、抱きしめるふりして触れないかな――いやいや、考えるな、俺。
俺は真空さんの元まで走っていって、肩を叩いた。すると、真空さんは振り向いて、その怜悧さを窺わせる表情を、一気に綻ばせた。
可愛い。やっぱり真空さんは、何よりも可愛い。無性に抱きしめたくなる笑顔だ。
「すみません……どうしても、今日、真空さんに……」
考えなしに走ってきたせいか、げほ、と空咳が出た。慌てて心配されたが、俺はそれを手で制した。
「大丈夫、ここまで走ってきて疲れただけなので……それで、俺、真空さんにどうしても……渡したいもの、あって……」
「分かったが、少し落ち着いてから話してくれ。……お茶でも飲むか?」
荷物から取り出そうとしたが、さすがにそこまで甘えるわけにはいかない。俺はそれから自力で何とか息を落ち着けて、一度深呼吸をしてから、バッグの中からそれを取り出した。
「初詣行ってないって聞いたので、京都の北野天満宮で合格お守り買ってきました。受け取ってください」
大学受験はとても辛いものだと聞く。そんな時に俺は何の力にもなれなくて、不甲斐ない思いを持て余していたのだ。
そんな中、ドンピシャで初詣のロケがあったため、自分のためを装って買ったものだった。だが渡す機会がずっとなく、結局今日までずれ込んでしまった。
それを見て真空さんは、嬉しそうな顔をするよりも先に不安げな顔をした。なぜ、と首を傾げかけて、はたと気づいた。
「ああ、ロケでここに行く機会があったので、それで買ってきたんです」
「あ、ああ……それでか」
真空さんは分かりやすくホッとした顔になった。忙しいのにわざわざ、と心配してくれたのだろう。そういうところも本当に好きだ。というかもう全てが好き。
「余計なお世話かとは思ったんですが、どうしても何かしたくて」
「いや、そんなことはない。すごく嬉しい。ありがとう、平太」
花が綻ぶような柔らかい笑顔を真空さんは浮かべた。
普段澄ました顔だからこそ、こういう時の柔らかい笑顔は堪らなく可愛い。胸が苦しくなる。どうやら、久しぶりの生の真空さんは刺激が強すぎたみたいだ。
俺は、お守りを持った真空さんの手を両手で上から握り込んで、笑った。俺にはこれくらいしかできないから、何とか勇気付けたかった。
「試験、頑張ってくださいね。……何なら俺に祈ってもいいですよ? 俺、仕事がなかなか成功してるので、下手に神頼みするよりもご利益があると思いますし」
「……そうだな」
冗談めかして言うと、真空さんは笑った。思わず笑った、というような笑い方をした真空さんに、俺まで嬉しくなった。
「これだけ勉強してきたんだから、大丈夫ですよ。あとは実力を出し切るだけです」
真空さんは、ああ、と頷いた。肩の力が抜けたような表情だった。
その表情に俺も安心して、ふと周りの喧騒が気になって周囲を見回した。すると、こちらに視線が集まっているのに気付き、俺は思わず苦い顔になった。
つい今までのノリでマスクすらせずに外に飛び出してきたが、そういえば俺はこれでも芸能人なんだった。
周りの言葉に耳をすますと「ねえあの人、明塚平太じゃない?」「え、あれ本物?」「何かの撮影かな」なんて聞こえる。やらかした。完全にやらかした。
このままぐずぐずしていたら、確実に「写真お願いします」だの「サインもらってもいいですか」だの言われる。経験済みだ。愛想のいいキャラで通っているから邪険に扱う訳にはいかないのだ。
「じゃ、じゃあ俺、今からタクシーで現場行くので。応援してますからね!」
真空さんに向かってぐっと拳を握って応援すると、真空さんは「ああ」と笑みを深くした。
それから、周りに声をかけられる前に慌てて俺はその場を立ち去った。
今ので少しでも真空さんの緊張が解せたならいいな、どうか真空さんが全力を出しきれますように、と思いながら俺は元いたタクシーに再び乗り込んだ。
「お待たせしました。じゃあ、スタジオに向かってもらえますか?」
運転手は「はい」と朗らかに言うと、ハンドルを握った。
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