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8王子様なんて馬鹿らしい

「見つかってよかったね、スプレー」  歩いて行った先にあった少し大きめの百均で、ようやく使えそうなスプレーを見つけられた。それをいくつか購入して百均を出ながら、ほっとしたように柚葉は言った。 「まあな」 「このまま見つからなかったらどうしようかと思った。とりあえずこれで一安心だね。一回学校に戻ろうか。また歩いて行く?」  ほっとしたせいか、柚葉の口は行きよりもよく回った。 「ああ、金もったいねえし」  そんなことを興味なさげに言ったが、歩いて行きたい本当の理由は、少しでも柚葉と二人きりでいたいからだ。  どこまでも素直になれない自分自身に苦笑したい気持ちになった。俺が素直になれないのでは、鈍感な柚葉が気付くはずがない。分かってはいたが、どうにもできなかった。  そう返事をしたが、柚葉からの返答はない。疑問に思って柚葉を見たら、柚葉は立ち止まって何かを見つめていた。その視線を追い、俺は思わず笑いを零してしまった。 「この人の新刊、出てたんだ。前作からの続きがずっと気になってたんだよね」  独り言のように呟く柚葉。  柚葉が立ち止まって見つめていたのは、本屋に並んでいた新刊のコーナーだった。柚葉はガラスのドア越しにそれを見つめ、そう呟いていた。  その後、柚葉は俺を振り向いて、物言いたげな顔で俺を見た。 「……買ってくれば? すぐ戻ってくるなら構わないんじゃねえの」  ぱあっと分かりやすく表情を明るくした柚葉は、小走りで本屋の中へ入っていった。  柚葉は喜びを素直に表す。それは俺とは真反対だから、俺の目にはいつも新鮮に映る。  本屋から出てきた柚葉は、買った時に付いてきたのだろう袋を手から下げ、早速本を開いていた。 「馬鹿、歩きながら読むな。家に帰ってから読めよ」  俺が頭をはたくと、だってさあ、と柚葉は口を尖らせた。 「何ヶ月も待ってたんだよ? ちょっとくらい、冒頭部分を読むくらいいいでしょ」 「はあ? 何しに来たと思ってんの?  本屋に来た訳じゃねえだろ」 「……あ、そっか」  今思い出した、というような表情の柚葉。俺がため息を吐いて置いていくと「ま、待ってよ!」と焦ったように柚葉は追いかけて来た。 「それ、どんな話なんだよ」  聞くと、柚葉は目を輝かせて話し出した。 「一言で言うと青春ミステリ。だけどミステリにしては異質で、本格ミステリの定石を踏まえながらあえて外してる話なんだ。だけど上手くまとまってるところは作者の手腕によるものだね。一巻が、無人島にある開かずの館で殺人事件が起きる、っていう一見定番の設定なんだけど、その設定を下地に独自の展開が広がってたんだ。それがすごくてさあ。その次の巻が、ハムレットになぞらえて話が進んでいくもので、ハムレットの話と登場人物が上手い具合に絡み合ってて面白かったんだ。で、その――」 「ストップ。長えよ」  どんどんヒートアップしていく柚葉の話を、俺は慌てて止めた。このままにしておいたら、学校に着くまでずっと語っていそうだった。  柚葉は話すのを止め「ごめん、話し出したら止まらなかった」と苦笑いを浮かべた。  そんなところも愛おしい。柚葉が夢中になって本について語る姿は、微笑ましくて好きだ。……だからといって、ずっと聞いているのは疲れるが。 「まあ、柚葉らしいからいいけど。……ハムレットか、うちのクラスがやる劇だよな。お前学級委員長だから指導してんだろ? どんな感じな訳?」  柚葉は頷いて、思い出すように遠くを見るような目になった。 「問題ないと思うよ、むしろ上出来じゃないかな。フォーティンブラス役の名元とホレイショー役の樋本は演劇部だからさすがに上手いんだよね。で、オフィーリア役の滝瀬はちょっとたどたどしいんだけど、それでもだんだん形になってきてる。ハムレット役の前園先輩は経験者みたいに演技が上手かったよ。毎年舞台祭で何かしら役があったんでしょ? それもあるのかな。あの先輩、本当に何でもできるよね」  そこで柚葉は一度言葉を切り「でね」と溜めた。  嫌な予感がした。――まだ明塚について一切触れていないのだ。 「明塚が、ほんっ――とうにすごかったんだよ! 明塚の演技を見た百人中九十人は間違いなく俳優だって勘違いするくらい、いや、むしろ何でまだ俳優になってないのか不思議なくらい」 「大げさ過ぎ」 「って思うでしょ? それが本当にすごいんだって。俺が明塚に憧れてるからそう見えるだけじゃなくて、演劇部の名元も圧倒されてたから。まあ明塚は何でも器用にこなすんだけど、演技に関してはそんなレベルじゃないんだ。演技をするために生まれてきたのかってくらいなんだよ!」 「あっそ。どうでもいいわ」  面白くない。確かに明塚がすごいのは分かるし、柚葉が憧れているのも分かっている。だけど何も、こんな時まで明塚のことばかり話さなくてもいいじゃないか。文化祭の準備のためとはいえ、俺と柚葉二人で初めて出かけているのだ。それなのに、結局話題は明塚のこと。  分かっている。柚葉がこういうやつなのは。分かっているけれど――やっぱり気に食わない。腹の底でどろどろとした熱いものが渦巻いているように、苛々が止まらない。  そんな嬉しそうな顔も、楽しげに話す声も、全部俺に向けばいいのに。明塚なんかじゃなくて。どうして俺じゃ駄目なのか。明塚のことなんて、綺麗さっぱり忘れ去ってしまえばいい。 「相変わらず興味なさそう。でも、いつか絶対すごさが分かるよ。こんな俺にも話しかけてくれて、ちょっとの言葉で俺の人生を百八十度変えてくれて……俺にとっては奇跡そのもの、だなぁ。あ、そういえばね、この前明塚が――」 「あのさぁ」  柚葉が『奇跡そのもの』と夢見るように、しみじみと言うのを聞いて、何かが切れた。口を挟まずに適当に流すつもりだったのに、我慢ができなくなった。  俺の声の調子が違うのに気が付いたか、柚葉が途端に口を噤む。 「明塚明塚うるっせえんだよ、てめえの頭の中は明塚しかねえのか。てめえの口から明塚って言葉をもう聞きたくねえよ。明塚が振り向かねえのは分かってんだろ? それなのによくそんなに楽しそうに話せんな」 「それは、分かってる。けど、でも明塚は俺にとって憧れで――」  多分、鈍い柚葉でも俺がキレているのには気付いている。それなのになお、明塚のことについて話すのを聞いて、今まで溜めてきた鬱憤が爆発した。  恐らく、俺は嫉妬深い方だ。だから、今までここまで保ってきたのは奇跡に近い。  俺は怒りに任せて、気づけばこう吐き捨てていた。 「――柚葉、お前さ、何で俺もお前と同じだってことに気が付かねえの?」

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