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1二人で歩んでいくために

 兄貴がここ数ヶ月、様子がおかしかった。  大抵夜か朝に帰ってきては数時間寝て大学に行っているし、帰ってくる時は決まって酒と香水の匂いをさせている。  順当に考えれば浮気や夜遊びだ。だけど、兄貴に限ってそんなことはありえない。だって、千紘さんは兄貴が他のオンナを全て振ってまで付き合った相手だ、そうやすやすと乗り換えるはずがない。  それに、夜は何度か千紘さんが家に来て夕食を作ってくれたかと思うと、兄貴が帰ってくるまで寝ずに待って、兄貴が帰ってくると肩を支えて風呂に連れていったこともあった。  もし兄貴が浮気をしているのだとすれば、千紘さんはそれを知っているどころか肯定していることになる。それも、千紘さんに限ってそんなことはありえない。  それに最近兄貴は顔色が悪い。冷蔵庫には栄養ドリンクがいくつも入っていた。どう考えても無理をしている。  だけど何を無理しているのか分からず、俺はただ疑問に思うことしかできず、ここ数ヶ月――夏休みから櫻祭が終わる今まで過ごしてきた。  しかしその謎は、兄貴と千紘さんの会話を盗み聞きしてしまったことから、解けてしまった。 「……お前、いい加減やめたら? そのうち体壊すぞ」  櫻祭が終わって少ししたある日の夜、トイレに起きてふとリビングから明かりが漏れていることに気付き、ドア近くに行くと、そんな千紘さんの声が聞こえてきた。悪いとは思いつつも俺は聞き耳を立てることにした。 「んなこと言ったってさぁ、金が全っ然足りないんだって」  ――金が足りない? そう思わず疑問に思い、俺はさらに耳を傾けた。  だって、今までは金が足りなくなることなんてなかった。父親から仕送りだけはきちんとあったからだ。なのにどうして、今更金が足りなくなるのか。 「そりゃそうだろうけど……もっと真っ当な仕事じゃ駄目なのか?」 「それじゃ、とてもじゃないけどやってけないんだよ……俺一人だったら、奨学金使って必死にバイトすればやってけるだろうけど、あいつ――平太がいるから。あいつ私立の高校行ってるし、それから大学入試だけで何十万は吹っ飛ぶっていうし、大学の学費だってかかるし……真っ当なバイトじゃ絶対足りない」  いきなり俺の名前が出て驚く。どうも、俺は聞かないほうがいい話なようだ。だけど、足が床に張り付いて、離れなかった。  この先は聞きたくない、だけど聞きたい、相反した気持ちがせめぎ合って、ごちゃ混ぜになって、俺はただ話をその場で聞くことしかできなかった。 「だからって何も――ホストなんて」  千紘さんの声がした。ほすと、ホスト――その言葉だけが、やけにクリアに聞こえた。頭の中で何度も反芻して、ようやくその言葉の意味が飲み込めた。  次いで、兄貴のおどけたような声が聞こえた。 「向いてるじゃん、俺? 女の子に思ってもないこと言って、喜ばせて、その気にさせて、金を落としてもらって――本当は、もうこんなことしたくないし、女の子騙してる感じして気がひけるけど、俺はこれ以外手段が見つかんなくてさ。俺が大学やめることも考えたけど、正直、この大学で卒業したいしね」  兄貴はいつも通りの口調に聞こえた。それがかえって、『ホスト』という言葉の現実味を増していた。  だけどどうして、ホストなんてやらなきゃいけないほどに金に困窮しているのか。だって、父親からの仕送りはちゃんとあったはずで―― 「心配すんなって。ずっと続ける気はないし、ある程度稼いで全部貯金したら、すっぱりやめるから。幸運なことに売り上げは順調だしさ、このまま頑張ったらあと数ヶ月で目標金額に届くから」  いつも通りの明るい口調の兄貴にかぶさって、千紘さんの声が聞こえた。 「だから言ってんだろ、そんなに無理して一人で稼がなくたって、俺も一緒にバイトして金稼ぐの手伝うって――」 「――それは嫌なんだって。お前に迷惑かけたくない。だって、俺の家の事情じゃん? 仕送りしてくれてた親父が死んで、いきなり金のアテがなくなって困ってる、なんてさ」  親父が死んで――死んだのか? いつ? どうして? そもそも何で俺にそのことを、知らせてくれなかった? 「……え?」  気付いたら声に出してしまっていて、俺は慌てて口をふさいだ。だけど、遅かった。

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