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3二人で歩んでいくために

「――で、父親は俺たちを見捨てたし、親戚連中にも避けられてたんだよ。まあでも、親父は金だけは律儀に送ってきたから、俺たちは今まで苦労せずに何とかやってこれた。もしかしたら、罪滅ぼしのつもりだったのかもな。……だけど、親父の再婚相手と親戚はそうもいかなくてさ。葬式に行った時なんかまさに針のむしろだったし、遺産もほぼ相続できなかったし、挙げ句の果てには二度と自分たちに関わるなって言われて。で、金が足りないって訳」  兄貴はいつも通りの明るい口調のまま、そう語り終えた。  兄貴はいつだってそうだ、どんなことだって明るく茶化してやり過ごしてしまう。それはきっと、兄貴なりの強がりなんだろう。  俺は何も言えなかった。何も言えずにただ、その場につっ立っていた。  どうして母親は心中なんてしてしまったのか。俺や兄貴や父親は、どうでもよかったんだろうか。俺たちはその程度の存在だったんだろうか。微かに残る母親の面影を思い出して俺は、どうして、と尋ねたくなった。  それに兄貴が必死に隠していたとはいえ、どうして自分はこんなことに気が付かなかったのか。母親が心中――だなんて、どう考えても小五の兄貴、たった一人で抱え込むには辛過ぎる。  兄貴には、きっと俺と違って、母親や父親との楽しかった思い出がしっかり残っているはずだ。それなのにいきなり母親が自殺して、父親からは虐待されて――その気持ちは想像するにあまりある。  その記憶が、きっと兄貴を変えてしまった。毎日自分のやりたいことをやって楽しそうに振る舞いながらも、誰にも本心を明かさずに一人で苦しみ続ける、笑顔の仮面を被ったピエロのような性格に。  兄貴の辛さは想像してもし切れないけれど、俺が兄貴だったら果たして耐えられただろうか。  優しかった母親がいきなり不倫相手と心中して、優しかった父親がいきなり罵詈雑言を浴びせて暴力を振るってきて、挙げ句の果てには見捨てられて――それでも兄貴は、俺に何も悟らせずに、俺がちゃんと生きていけるように色々と支えてくれた。  俺のために。俺のために兄貴は、たった一人でこの過去と戦い続けてくれたんだ。  なのに俺は、  兄貴のせいで、父親があんなに怖いんだと、周りの人に避けられるんだと、兄貴を憎んでいた。  兄貴のせいで、父親に捨てられたんだと、俺がとにかく平和だけを求める性格になってしまったんだと、兄貴を恨んでいた。  兄貴のせいで、歪んだ性事情をもってしまったんだと、俺が恋愛ができなくなってしまったんだと、兄貴を責め立てた。  小学生の頃は口も利かなかった。中学生の頃はいつも文句を言っていた。  それはどれだけ兄貴を傷付けたんだろう。どれだけ兄貴に孤独感を与えたんだろう。  今更過ぎたことを後悔したって遅過ぎる。だけどそれでも、後悔せずにはいられなかった。 「……兄貴」  兄貴は「んー?」と普段通りの声色で聞き返し、普段通りに笑った。 「なに、お前もしかして涙ぐんでる? やっだなぁ、んな深刻に捉えんなよ。俺は全部分かってたけどそれでも、こうして楽しくテキトーに生きていけてるしさ。……大丈夫、親がどうだったからってお前が変わる訳じゃないし、金だって俺が稼げばいい話。それにさ、今まで二人でこうやって生きていけてんだから、これからも何とかなるって」  俺が察しの悪いやつだったらきっと、兄貴の言葉を額面通りに受け取っていた。だけど残念なことに、俺は察しがいい方だ。他のやつはなかなか分からないだろう兄貴の強がりも、見抜けてしまう。 「……今までこうやって俺が過ごしてこれたのは、兄貴が防波堤になってくれてたからだろ。父親からの、過去からの、親戚からの防波堤に。だから俺は、なーんも知らずに呑気に過ごしてこれた」  兄貴は面食らったように少し言葉を失って、それから「防波堤なんて、大げさだなぁ」と笑った。その笑顔は少し、弱々しく見えた。 「明るくテキトーに生きていけてる、なんて大嘘吐きやがって。俺、覚えてるぜ。昔兄貴と二人で旅行した時、兄貴が泥酔して『ごめんね、こんな兄貴で。……平太、お前は誰か大切な人を見つけて幸せになりな。間違っても俺みたいにならないで』って言ったこと。何が明るくテキトーに、だよ。強がり過ぎなんだよ兄貴」  兄貴は茶化そうとしたのか「お前さぁ」と笑ってみせたが、視線を揺らし、やがて目を伏せて呟いた。その声は僅かに震えていた。 「……覚えてたんだ」 「忘れらんねえよ、あんなこと。あの時初めて、兄貴の本心が見えた気がしたから」  兄貴はそれを聞いて、僅かに表情を歪めた。兄貴らしからぬ表情だった。

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