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1すれ違いは大きくなって

『……もしもし、真空さん』  夜、家で数学の問題集を解いていたら、不意に平太から電話が来た。慌てて携帯を耳に当てると、そう平太の声が聞こえた。  平太の声を久しぶりに聞いた気がする。最近はずっと、平太がバイトで忙しくて一緒に帰っていなかったのだ。  もしもし、と返すと平太は『どうしました?』と問いかけてきた。 『携帯に不在着信が入っていたので。電話してくれた時間帯はバイト中だったので、バイト終わってからかけ直しました。それで、何の用ですか?』  何の用だ、と問われて思わず口ごもった。――用というほどの用もない。ずっと会わなくて、寂しかったので声が聞きたかっただけだ。  悩んだ挙句、俺は誤魔化すことにした。 「何で電話したのか、忘れた。すまん」 『……そうなんですか?』 「ああ、すまんな」  そう言って切ろうとしたが、平太はふと、電話の向こうでこう呟いた。 『最近、ちゃんと会って話せてないですよね。不安になりました?』  まるで心を読まれたかのようなタイミングで言われ、「な、んでそれを」とどもると、平太は『図星でしたか』と笑った。 『バイトが忙しくて、すみません。どうしてもバイトしなきゃいけなくて。でも真空さんに愛想を尽かした訳じゃありませんから。心配しないでください』 「……分かった。頑張れよ」  平太の言葉を受けて言うと、『ありがとうございます』という声が聞こえた。  そうは言ったものの、やっぱり不安で寂しい気持ちはどうしようもない。会わないと、この気持ちは消えなさそうだ。 『平太くーん! どうしよう焦げちゃった!』  電話の向こうから微かに会長の声が聞こえる。バイト後に何をしているのかは分からないが、今まで会長といたのか、そう思うと、嫌に心臓が高鳴った。何とか消そうとしていた不安が、一気に増幅する。  平太はそれを聞いて、『はあ?』と呆れたように笑った。俺にはしない笑い方だ。仲が良さそうだ。心臓の鼓動が速くなる。 『ばっか、何でこの短時間で焦がすんだよ。ちょっと待ってろ、今キッチン行くから!』  遠くに呼びかけるように平太が言うと、『すみません、切りますね』と言って電話が切れた。 「……真空って、騙されやすいよね」  翌日、俺が少し元気のないのを感じたか、伊織にどうしたのかとしつこく聞かれ、結局昨日の電話のことを話してしまった。伊織はそれを聞いてまず、こう呟いた。 「平太が俺を騙してるっていうのか?」  伊織はむきに自分の意見を主張するでもなく、呆れ笑って真実を述べるかのように答えた。 「だってそうでしょ? その状況で明塚くんの言葉を額面通りに受け取れる方がすごいよ。おまけに最近明塚くんは自分と会ってくれないときたら、ね?」 「でも、平太はそんなことするようなやつじゃない」  伊織の意見に反論すると、伊織は「ほらそういうとこ」と俺を指差した。 「そういうとこが騙されやすいって言ってるの。そんなんでこの先大丈夫?」  伊織の辛辣な言葉に二の句をつげないでいると、伊織は「何てね」と表情を和らげた。 「本当は分かってるんでしょ、真空も。だから今朝ずっと、元気がなかったんだろうし」  図星だ。伊織が辛辣な言葉で指摘したことも、本当は分かってるという言葉も、全部。  伊織はふっと表情を引き締め、「落ち着いて聞いてね」と俺に話しかけた。 「僕は何も、自分がそうしてほしいから言う訳じゃない。純粋に真空が心配だから言うんだけど――今のうちに、明塚くんと別れたら?」  心臓が不快な速さで鳴る。平太の電話の向こうから会長の声が聞こえた、あの時と同じだ。 「それは無理だ。平太だって、何か訳があって毎日バイトをしているんだろうし、バイト後に会長と何かをしているんだろうし……平太が俺を騙して会長と、なんて、勘違いに決まってる」 「それ本気で言ってる? そもそも、本当に明塚くんが毎日バイトしてると思ってるの? どんな職場だって休みの日は大抵あるはずだし、まして飲食店でのバイトなんて、店側の定休日もあるだろうし休みの日は必ずあるはずでしょ?」  伊織が今指摘したことは全て、俺も同じことを考えていた。  バイトの掛け持ちでもしない限り休みの日は必ずあるはずだし、掛け持ちをしなくてはいけないほど、平太の家の経済状況は悪くなさそうだった。それに、バイト後に会長と何かをしているくらいだ、バイト後に少しくらい、会うなり電話するなり、してほしいのに。  俺は平太が誰よりも好きだ。だから、些細なことでも不安に感じて思い悩んでしまう。ましてやこの状況なんて、伊織の言う通り、平太は既に会長と関係を持っていて、俺より会長の方が好きになってしまって、だから俺は自分のためにも早いうちに別れを切り出した方がいいのでは――そんなことまで考えてしまう。  平太がそんなことをするなんて信じたくなくて、今までの言葉が全部本当だと思いたくて、だけど平太の演技の上手さは身に染みて分かっているからこそ、素直に信じ切れない。そんな自分を軽蔑する気持ちもあって、だけど信じようとする自分を馬鹿らしく思う気持ちもあって。 「真空、もう一ヶ月くらい同じことで悩んでるでしょ? そろそろ受け止めたら?」 「受け止めるも何も、そんな事実はない。そんなこと、あるはずない。俺は平太を信じてるから」 「……真空。ずっと言ってるけど、僕なら真空にそんな思いさせないから。僕、最初から言ってたじゃん、真空は明塚くんに騙されてるんだって」  伊織がまっすぐに俺を見る。その目を見つめ返すことができなくて、俺は顔を背けた。  確かに、最初から伊織はずっとそう言っていた。だけど、今は『そんな訳ない』とも、前のように『平太になら騙されててもいい』とも言い切れなかった。  代わりに俺は、手元の英語の問題に目を落とし、誤魔化すように伊織の間違いを指摘した。 「伊織、英作文のそこの文、過去完了形なのに動詞が過去分詞になってない」  伊織は、誤魔化すなよ、と言いたげに一度俺を見ると、「本当だね」とその問題の誤りを正した。

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