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6受験と仕事と卒業と

「……はい、コーヒーです。角砂糖は四つで牛乳多めでよかったですよね?」  リビングのソファに座る真空さんに湯気を立てるマグカップを渡すと、「ああ」と彼は笑顔で受け取った。俺はその隣に座りながら、マグカップに息を吹きかける彼を見て苦笑した。  相変わらずの甘党だ。俺だったらそんなコーヒーは飲めないだろう。そういうところも好きだけど、と心の内でだけ呟いてブラックコーヒーを啜る。 「……真空さん、大学生になっちゃうんですねえ」  卒業式を終えたばかりの真空さんを眺めながら、そんな馬鹿みたいな感想を呟く。そうしたら彼は律儀に頷いて、それから真っ直ぐ俺を見て尋ねてきた。 「平太はどうするんだ?」 「何がですか?」 「大学だ。結局進学するのか?」  真空さんの問いに思わず口ごもる。それは、今まさに俺が悩んでいることだった。 「ううん……実は今ちょっと悩んでるんですよね」  俺の手の中にあるコーヒーが黒い波紋を起こしているのをじっと見つめる。俺の心のうちを表しているようだった。 「……元々進学しないつもりだったんですけど……何か、俺だけ取り残されてる気がするんですよね。だから、これでいいのかなって考えちゃって」 「取り残されてる?」 「ほら、二年の冬休み明けぐらいから少しずつ受験勉強って始まってるじゃないですか」 「ああ、確かにな……」  先生たちはしょっちゅう、三年ゼロ学期、なんて言い方を俺たちにする。この時期からもう受験は始まってるんだ、早めに取り掛かればその分だけ余裕が生まれるから、と。  そして櫻宮学園は進学校だから、もうすでに進路に向けた行動を起こしている生徒ばかりだった。それは和泉や雫、渉もそう。  和泉は、元々国公立大学を目指していたから、高一の頃からコツコツと勉強を重ねてきた。常に成績トップを維持しているから、彼の志望校は難関校ではあるが十分射程圏内にある。  この前和泉は「お父さんの喫茶店を町の小さな喫茶店で終わらせたくないんだ。だから、学費の負担が少ない国公立に通って、経営学とか商学とかを学んで、将来もっと盛り立てていけるようになりたくて」とはにかんで言っていた。立派な夢だと思う。  雫は、音大を目指してみるか普通の私大に行くかをしばらく悩んでいたらしい。けれど音大の難易度、将来やりたい音楽の方向性などを突き詰めて考えた結果「別に音大へ行かなくても俺のやりたいことはできる」という結論が出たらしく、進学先を私大に決めたそう。  雫は、コンサートを開く音楽家や歌手というよりは、彼の好きなkenjiのようなソロアーティストかバンドマンなんかになりたいと結論付けたそう。それらは音大に行けばなれるって訳じゃないし、と言っていた。確かにそうだ。今は受験勉強の傍ら、息抜き代わりにギターの練習をしていると。  ちなみに第一志望の学部は心理学部。何でも、心について学べばもうちょっと自分と向き合いやすくなるかもしれないと思ったから、だそう。  渉は、進学校にしてはかなり異色な進路を選んだ。ファッションデザイナーになるため服飾系の専門を目指すそうだ。  将来デザイナー以外の仕事をしたくなったときのため進学校に入ったが、やっぱり父親と同じ仕事に就きたくなったと。  専門に行くと決めたからか彼はほとんど勉強していない。試験は場合によっては作品提出もあり得るそうだが、今まで舞台祭で作ったものをいくつか持参すればいいかなと言っていた。確かにあれをみて落とす学校はないだろうと思う。  やることないから最近コスプレイヤー始めたんだ、やっぱ何かしらの衣装作るの超楽しいわ、と見せてくれたSNSのアカウントは既にフォロワーが数千単位でいた。そういえば渉は、言動が相当残念なだけで顔は良いんだった。  とにかく、彼らは自分の進路と向き合ってしっかり考え、進学先をきちんと決めている。一方の俺は仕事と学校の課題に追われるばかり。進学云々はほとんど考えていない。  それらを伝えると、真空さんは要領を得ない顔で首を捻った。 「……そりゃ、お前だけ既に就職してるようなもんだし、一人だけ違うのは当たり前じゃないか?」 「そうかもしれないですけど。うーん、なんて言うんだろ……漠然とした不安があるんです。ほら、芸能活動一本に絞ってそれに専念するって、大博打じゃないですか。もちろんそれを選んだのは俺なんですけど、将来俳優で全く食べていけなくなるかもしれない。で、その時にそれなりの私大を卒業しておいた方が潰しが効くかなって」 「ブレイクしてる今から駄目になった時を考えるのか。平太らしい考えだな……。だが確かに、その考えは一理ある」  真空さんは苦笑を口の端に浮かべる。俺は「でしょう?」と返した。 「それと俺、一ノ瀬さんを尊敬してて結構仲良いんですけど――」 「待った。一ノ瀬さん? ……もしかして、一ノ瀬薫か?」  一ノ瀬薫というのは、俺の初出演作で主演を演じていた先輩だ。そのドラマの撮影中も、その後も何かとお世話になった。 「そうです」と頷くと、真空さんは何事かを言いたげな顔になった。促すと、彼は微妙な顔をして言った。 「お前……前、一ノ瀬薫に対して嫉妬してなかったか? 何だっけか、ほら……俺と二人きりの時に俺以外の話はするな、って」 「ああー……」  言われて初めて思い出した。確かにした。真空さんが大学に合格したと連絡してきた日だ。二人きりで過ごすのが本当に久しぶりだったから、子供っぽい嫉妬をぶつけてしまったっけ。  何となく気まずくなって、咳払いして続けた。 「そ……それとこれとは別の話です。で、この前一ノ瀬さんにご飯連れてってもらった時に相談したんですけど――」 「――なあ、やっぱりお前が嫉妬するのはおかしかったんじゃないか? むしろ、俺より先に相談したのかって俺が嫉妬するべきだと思うんだが」 「し、仕方ないじゃないですか、あの時は二人きりになるのが久しぶりで、余裕なくて――で、相談したんです。そしたら一ノ瀬さんには、俺は行った方がいいと思うよ? って言われて。何でも、学んだところが意外な場面で生きてくるのと、あと単純に楽しいから行っとけって」 「ああ……一ノ瀬薫自身が大学に進学してるからな。それも、結構な有名大」  当然のように相槌を打つ真空さん。さすが役者に詳しい。俺は本人から聞いて初めて知ったと言うのに。  その後真空さんは、我が事のように真剣に考え込んでくれた。しばらく唸り、やがて「あくまで俺の個人的な意見だが」と話し始める。 「俺は、行った方がいいと思う。平太は要領がいいから、その気になれば仕事と学業の両立くらいできるだろうし。あと、お前は大博打を打つタイプじゃない。なら万が一も考えて大学へ行くのは良い選択肢だと思う――というか、お前自身、もうその方向に心が傾いてるんじゃないか? 一体何が心配なんだ」  真空さんの言葉に苦笑した。確かに、悩んでると言いつつもう「大学進学」へと半分心が決まっていたように思える。そして、俺が何を一番ネックに思っていたのか、彼との会話でようやく見えてきた。 「仕事もあるのに、今から受験勉強を始めて間に合うかなぁ……って」  コーヒーを一口飲み込んでから呟く。  そう、そこだ。正直「絶対何があっても大学に行きたい」という熱意もないのに、本当に受験勉強をできるのか? 今からで間に合うのか? という不安が、俺の喉元に引っかかっていた。  しかし真空さんは、確かめるように俺に尋ねた。 「……お前、国公立志望か?」  俺はかぶりを振った。  行くとしたら実践ではない学問としての演劇が学びたいという思いがあって、演劇学がシラバスに組み込まれている私大をいくつかピックアップしてある。一方の国公立には演劇学を学べる学校がない。  ……まあ、一般的に私大は国公立より難易度が低いとはいえ、俺が行きたいと思っている大学はそれなりに偏差値が高いのだが……。  そういう思いと、現段階で考えている志望校を伝えると、真空さんは首を捻りながら呟いた。 「私大なら間に合うんじゃないか? 国公立と違って三教科だし、平太は元々成績が良いんだし、あと……正直AOで受かるんじゃないかと思うけどな」 「AO……そっか、その手があったか……」  AO入試というのは、面接や小論文、志望動機など総合的な人物評価によって選抜される制度だ。  学びたいことから大学を選んだため志望動機ははっきりしているし、評定平均も良い方だし、面接だって得意だ。人前で話すことは当然慣れている。あとは小論文の練習くらいか。 「それと、受験勉強なら俺がいくらでも手伝うしな」  微笑んで真空さんは言う。トップレベルの国公立に現役合格した真空さんがいるならきっと百人力だ。そうでなくても、真空さんが応援してくれるだけで俺は頑張れる。  一つの光が目の前に現れたみたいだ。ようやく、進むべき道が見えてきた。 「……相談してみてよかったです。何とかなりそうです」 「よかった。後は先生と詳しく話を詰めるといい」 「そうします」  肩の力を抜いて、俺は少しぬるくなったコーヒーを口に含んだ。

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