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6すれ違いは大きくなって

 いつも俺はコンビニのバイトをこなしてから始業時間ギリギリに教室に駆け込み、朝のホームルームと一時間目前の休み時間を寝て過ごしていた。だがそんなある日、不意にポケットに入れた携帯が振動して俺は飛び起きた。  誰だよ俺の睡眠を邪魔したのは、と恨みがましく携帯の電源を見ると、そこに表示されていたのは、兄貴だった。どうして兄貴が、と疑問に思いつつも廊下に出て電話を取った。 『――平太! お、落ち着いて聞いてほしいんだけど……!』  兄貴にしては珍しく、動揺を露わにした声だった。お前が落ち着けよ、と思いながら俺は無言で促した。 『その、昨日――っていうか日付回ってたから今日なんだけど、給料日だったから給料もらって、で、今起きたから計算してたんだけど』  まさか、と俺は固唾を飲んで兄貴の言葉を待った。どうか、俺の予想通りであってほしい。  兄貴は一呼吸置いてから、告げた。 『――目標額、達したよ』 「マジで!?」  大声で聞き返してしまった。周りの目が集まった気がしたが、そんなことは構っていられない。――目標額に達したということは、もう根を詰めてバイト三昧の日々を送らなくて済むし、兄貴の無理する姿を見なくても済む、ということだから。 「何で……まだまだ届きそうにないって言ってたじゃねえか、兄貴」 『そうなんだけど、ほら、十一月、バースデーイベントやったから。多分あそこで相当稼げたんだと思う。それと、その時に客から色々ブランド品とかのプレゼントもらって、それ全部質に入れたから、それもあると思う』  兄貴はそう答えると『ほんっ……とにさぁ』とぼやいた。 『ここまでしんどかった……毎日メンヘラ女から訳も分からずブチ切れられて号泣されるわ、酒ぶっかけられるわ、目の前でリスカされるわで……女性恐怖症になるかと思った。稼げてるせいで同僚から妬まれるし、睡眠時間が足りないのと酒の飲み過ぎとで体壊すし、本当に……もうやめられるのがすごい嬉しい』  俺自身も頑張ってきた、とは思っていたが、兄貴の話を聞くとやっぱり俺はもっと頑張れたんじゃないかと思う。 「悪い、兄貴にばっかそんな頑張らせて」 『……平太さ、最近俺に優し過ぎない? 頭打った? 変なもの食べた? ヤバい薬飲んだ? それとも俺もうすぐ死ぬ?』  素直な感想を言ったのに、兄貴は訝るような声でそう言った。兄貴に謝ったのが馬鹿らしくなった。 「あークソ、もう一生兄貴のこと心配してやらねえからな」 『冗談だよ、怒るなって。……正直に言うと、平太にすごく感謝してる。本当は俺一人で稼ぐつもりだったのに、平太が朝も夜も毎日バイトしてくれたおかげで、こんなに早く目標額に達したからさ』  冗談を言ったさっきの兄貴の気持ちが分かった気がした。いつも一緒にいる兄弟だからこそ、素直に感謝されるとかなり、気恥ずかしい。 『かなり無理させたし心配させたよね、ありがとう。俺はホストやめて昼職のバイトに変えるし、お前も掛け持ちしないで喫茶店一つに絞って大丈夫だから。とりあえず今日はしっかり休みな』  分かった、と答えると、電話が切れた。  電話が切れてから俺は、安心したのか今までの疲れがどっときて、思わずその場に座り込んでしまった。今までの睡眠不足が祟ってか、貧血で頭がくらくらする。 「おい平太、大丈夫かよお前」  不意に声をかけられる。顔を上げると、渉が心配そうな表情で俺を見ていた。 「渉……俺、もうバイト頑張らなくて済む……」  渉はそれを聞いて、自分まで嬉しそうな顔になった。 「目標額届いた?」 「届いた……兄貴が頑張ってくれたおかげで、何とか高校通い続けられるし大学も行ける……」  安堵からか、嬉しさからか、半泣きになりながら俺は答えた。自分の声を聞いてから、自分は思っていたより限界に近かったんだと思い知った。 「平太も頑張ってただろ。あの無気力の塊みたいな平太が、寝る間も惜しんでバイト漬けでさ」 「俺、頑張ってた?」  問うと、渉は笑いながら「頑張ってたよ。お前が弱気とかこえーな」と言った。 「で、座り込んでどうした?」 「何か力抜けちゃって……貧血かもしれねえ、頭くらくらする」  渉は笑顔から一転、不安げな表情になった。 「お前大丈夫? 一回保健室行って寝てくれば? 俺が担任に言っといてやる」  保健室の雰囲気は苦手だ。いると具合がさらに悪くなりそうな気がする。だけど無理はしない方がいいか、そう判断して俺は「そうするわ」と頷いて立ち上がった。  立ち上がる時眩暈がして、思わず渉に寄りかかった。これは確かに、保健室に行った方がいいかもしれない。保健室に行く時、渉が随分と心配そうな顔をしていて、笑ってしまった。あいつは相変わらず、お人好しだ。  保健室の先生は、訳を話したらすんなりベッドに寝かせてくれた。俺は保健室のベッドの中、天井を見上げてぼうっと思いを巡らせた。  もうバイトばかりしなくて済む。今日はすぐに家に帰って寝るとして、明日以降のバイトがない日はどうしようか。  余裕が生まれて、まず最初に浮かんだのは真空さんだ。  今までは、朝からバイトで疲れて、夜もバイトして家に帰ったら速攻で寝てしまっていたので、会う時間はおろか連絡すら満足にできなかった。真空さんが自ら電話をかけてくるくらいだ、きっと相当不安がらせた。だからまずは、全て話して謝ろう。それから、バイトがない日は真空さんと一緒に帰りたい。  それと、真空さんの誕生日――十二月二十五日まで、もう一ヶ月もない。さすがに何かプレゼントを買うだけの金は持っていないが、二人にどこかへ出かけられるだけの金ならきっと何とかなる。どこへ出かけようか。どこなら喜んでくれるだろうか。  そんな考えを巡らせながら、俺はうとうととして目を閉じた。  この時の俺は、なんて滑稽だったんだろう。真空さんにどんな思いをさせていたのかも気付かず、呑気にそんなことを考えて。だからきっと、あれは――当然の報いだったんだろう。

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