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8すれ違いは大きくなって

 打ち消そうとしても、不吉な予感が消えない。そもそも、どうして証拠を見せるために放課後教室に呼び出す必要がある? 一体何を見せるつもりなんだろうか。  教室に近付けば近付くほど、不吉な予感が大きくなっていって、心臓が嫌な鼓動を刻む。教室の中からは何も聞こえない。  もしかしたら、誰もいないのかもしれない。そんなのは希望的観測でしかないことは分かっているが、それでもそれに縋りたくなる。  何もない、何もないに決まってる――そう言い聞かせながら、俺は扉に手をかけた。  扉を開いた。そこにいたのは、小深山先輩にくちづけをする、真空さんだった。  頭の中が真っ白になる。なんで、なんで……なんで? 頭の中を「なんで」という三文字だけがぐるぐると回る。理解ができない。理解をしたくない。  ――僕と真空が付き合うためには、君と真空が別れてもらわなきゃ、困るんだ、ってことだよ――  昨日の小深山先輩の言葉が、やけに鮮明に頭の中で鳴り響く。付き合うためには、つまりそれって、真空さんはもう、俺のことじゃなくて小深山先輩の方が好きなんだ、ってことだろうか。  なんでいきなり、真空さんに限ってそんなこと、あるはずない。そう思いたい一方で、だけど今のキスは、真空さんからしていたじゃないか、そう囁く自分もいる。  真空さんが小深山先輩から唇を離した。なんで、そう尋ねたかった。なんで、小深山先輩とキスをしているのか。なんで、もう俺は必要ないってことなのか。なんで、何がきっかけでそうなったのか。なんで、なんで……  尋ねたいことは山ほどあった。だけどあり過ぎて、喉元で渋滞を起こして、何も出てこなかった。 「……何で……」  俺は結局、そう尋ねた。自分の声は、今にも消え入りそうだった。 「……真空さん」  俺は真空さんの名前を呼んだ。たぶん、俺は否定してもらいたかった。これは誤解なんだと。自分は平太が好きだから、大丈夫だと。  だけど真空さんは、無言で俺を見るのみ。何を考えているのか、その無表情からは読み取れなかった。  いつも通りの顔だった。「恋人」に向ける顔じゃなくて、「後輩」に向ける顔としては、いつも通りの。どこか超然としていて、気安く話しかけにくい、そんないつも通りで、恋人だった俺は馴染みの薄かった顔だった。  その顔を見たら、信じたくなくてぐちゃぐちゃになっていた色んな気持ちが、すとん、と腑に落ちた。納得できた訳じゃない。なんで、という言葉はまだ頭の中を渦巻いている。だけど、ああ、もう真空さんは俺のものじゃないんだな、と理解してしまった。  だけどなんで? 俺が何をした? 前に真空さんが電話してきたときは、普通だった。何も変わりがなかった。なのに、なんでいきなり、いつの間に真空さんは、小深山先輩を選んだんだろう。 「何で……」  自分の声は震えていた。理解はできてしまった。だけど、納得はできない。したくない。  真空さんが好きだ。まだ、全部伝え切れていない。たぶん、どれだけ伝えても伝え切れない。だから、一生かけて伝えていきたかった。  そんなのは、俺が勝手に舞い上がってしまっていただけ、だったんだろうか。たかが高校生の恋愛、それは恋愛ごっこに過ぎなくて、こんなにもあっけなく終わってしまうものなんだろうか。  前に真空さんに、お互い大学生になったら同棲を考えてみよう、と言ったことがある。あれは本気だった。本気のつもりだった。真空さんも、約束だからな、と答えてくれた。だから俺は、思ってもみなかった。こんなに早く終わりが来るなんて、思ってもみなかった。  しばらくその場に立ち尽くすと、俺はその教室から逃げるように、その事実から逃げるように、走り去った。 「――君のせいだよ、明塚くん」  階段の手すりに掴まったとき、後ろからそう、声がした。振り向くと、小深山先輩が悠然と立っていた。 「俺のせい、って、どういうことですか」  問いかけた俺の声は、ひどく弱々しかった。小深山先輩は、それには答えずに問い返した。 「ねえ明塚くん。君はもしかして、真空がどうしていきなりこんなこと、って思ってる?」そして、俺の答えを待たずに続けた。「言っておくけど、真空が突然心変わりしたんじゃないからね。君が先に心変わりして、君が先に真空を裏切ったんだ」  俺が先に心変わりして、俺が先に真空さんを裏切った――言っている意味が分からない。俺は何もしていない。ずっと、変わらず真空さんだけが好きだった。  小深山先輩はそんな俺を見て「いつまでそうやってとぼけるつもり?」と冷たく笑い飛ばした。 「君はこの一ヶ月とちょっと、ずっと真空を裏切り続けてたじゃないか。真空と会おうともしないで、毎日会長と帰って、詳しいことは話そうともしないで『毎日バイトがある』だなんて、見え透いた嘘をついて」  さあっと血の気が引いた。頭ががんがんする。真空さんがいきなり心変わりしたのは何でだ、と、半ば真空さんを責めるような気持ちでいた。だけど本当にひどかったのは、俺自身だった、ってことだろうか。  そうだ。言われて思い返してみれば、俺はあまりにもひどいことをしていた。真空さんといきなり帰らなくなって、なのに和泉とは毎日一緒に帰って、バイト後に会うことすらしないで、なのに和泉の家にはよくバイト後に行っていて。どうして毎日バイトをしているのか訳も話さずに、真空さんなら理解してくれると、特にフォローを入れることもなかった。  真空さんが電話をしてきたときは普通だった、そう俺は思っていた。だけど、あの照れ屋で消極的な真空さんが自分から電話をかけてくる、そのこと自体がそもそも、普通じゃなかったのだ。それに俺は気が付かなかった。 俺はあのとき、おざなりなフォローしかしなくて、そればかりか、真空さんとの電話中に和泉と話してしまった。  確かにそれらは、自分のことはどうでもいいんだと、そう真空さんに勘違いさせるには十分過ぎた。 「真空はそれでも、すぐに明塚くんに愛想を尽かすことはなかったよ。僕が別れた方がいい、って言っても、俺は平太が好きだから、平太が裏切るはずはないから、って」  小深山先輩の言葉に嘘はないだろう。だからこそ、一つ一つがひどく重くのしかかる。 「あの真空が、よく泣いてたよ。それでも真空は、君のことをずっと信じ続けてたのに、そんな真空の思いを、君は今までずっと裏切り続けてた」  小深山先輩が、そう追い討ちをかける。今回ばかりは、どう考えても小深山先輩が正しくて、俺が間違っていた。  小深山先輩は、一度息を吐いて、俺をまっすぐに見据えた。 「もう一度だけ言うよ。明塚くん、真空と別れてくれないかな」  選択肢は、一つしかなかった。たとえその選択肢がどんなに選びたくないものでも、もう後戻りはできなかった。それだけのことを、きっと俺はしてきたのだ。 「……分かり、ました」  俺は頷いて、それから、後ろも向かずに逃げるように学校から出て行った。

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