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8彼は君とどこか似ている
家には帰りたくない。嫌でも一人ぼっちなんだと再確認させられるから。幸い俺の顔と体には需要がある。「今日は帰りたくないなぁ……」と甘い声を出せば、泊めてくれる人なんて山ほどいるのだ。
辛くないと言ったら嘘になる。それでも、一人きりの家にいるよりは幾分かましだ。だけど本音を言えば、平太の家に泊めさせてもらえればそれが一番いい。きっと言えば快く了承してくれるだろうし、前園先輩も理解してくれるはずだ。でも平太には極力迷惑をかけたくない――あの頃とは違うのだ、平太の一番は先輩であるべきだ。
今日約束した相手は、六十代のサラリーマンで、この歳になって奥さんに逃げられたと聞いた。だからこんなことをして、憂さ晴らしをしているんだろう。
ホテルで一回だけの約束だったが、今日は帰りたくない、と言ったら、いとも容易く「なら僕の家に泊まっていきなさい」なんて約束を覆した。精神がやられているときに一人きりの家で寝るくらいなら、このおじさんと恋人ごっこをする方がずっといい。いやらしく肩を抱いてくるのには少し吐き気がするが、仕方ない。
こんなことまでして生にしがみついて、何になるんだろう。その疑問は、いつも心の中に渦巻いている。もう苦しみたくないから、こんな醜い自分なんていない方がいいに決まってるから、さっさと死んでしまおうか。その衝動も、いつも心の中に渦巻いている。
だけど、そんなことをしてしまえば、平太がどんな気持ちになるか、考えると、身勝手なことを考えた自分に嫌悪感が湧く。あいつはドライだがお人好しなところもあるから、間違いなく自分を責める。俺が雫に何もしてやれなかったせいだ、と。そうして平太の人生に暗い影を落とし続けるだろう。
それは嫌だ。自分が苦しむこと以上に、平太が不幸になるのは嫌だ。
だからこうするしか――そう唇を噛んで、消えたい衝動をやり過ごした。こんな心中なんて察されないように愛想よく話しながら俺は、ふと前を見て――一瞬、呼吸が止まった。
「あ、……せん、ぱい」
誰にも会わないように細心の注意を払っていたというのに、そこには小深山先輩がいた。頭の中が真っ白になってフリーズする。どうしよう、どうすればいい? 弁解するかそれとも認めるか、どちらにしろ最悪だ。幻滅されただろうか、軽蔑されただろうか。
小深山先輩はどうするだろう、何も見なかったことにしてUターンするだろうか――その考えは、打ち砕かれた。小深山先輩は、俺を見るとすぐに俺の腕を掴んできて、その男から引き剥がすように手を引いた。
「おい待てよ、何だお前は!」
怒号と共におじさんが小深山先輩の腕を掴んだ。小深山先輩はガタイがいいというよりはむしろ華奢で、力が強そうには到底見えない。だからおじさんに怪我をさせられたらどうしよう、俺のせいで――という俺の心配は、杞憂に終わった。
小深山先輩はとっさにおじさんの腕を捻り上げた。かっこいいくらいに迷いがなかった。それに驚いたのか、おじさんは痛い痛い! と大げさな悲鳴を上げた。
「どういう関係かは知りませんが、彼に気安く触らないでいただけますか」
――その言葉で、察した。小深山先輩はきっと、俺がこのおじさんに無理やりホテルに連れ込まれたと思っている。俺は思わず顔を伏せた。……俺はそんなに綺麗じゃない。自分の寂しさを埋めるために体を売ってしまうような、どうしようもない人間だ。
「誤解だよ。無理やり連れ込んでなんかいないよ、僕と彼は同意の上でしたんだ。ねえ?」
そうだ、とは言えなかった。でも嘘ではないから、否定もできなかった。何も言えずに俺は、ただ黙っていた。小深山先輩に軽蔑されたくない。でも、このおじさんの手前、否定もできない。
「君こそ誰なのか知らないけど、邪魔はしな――」
おじさんが急に黙り込んだ。顔を上げると、小深山先輩が無言で睨んでいた。ただ睨んでいるだけなのに、威圧感があった。平太から聞いた話と俺が知っている小深山先輩はかけ離れていたが、これを見て、確かにキレたら怖そうだと思った。
おじさんが萎縮した隙を逃さず、小深山先輩は俺の手を引いてその場から早足で離れた。何を思ってこんなことをしているんだろう。俺の手を掴む小深山先輩の力は、痛いくらいに強かった。
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