278 / 373

7正反対の恋の形

「……本当に、それだけでいいの? 遠慮してるんだったらしなくていいのに」 「うん、それで俺は十分だから」  伊織は欲しいものを何でも買ってあげたかったのだろう、腑に落ちない表情だったが、それ以上は追求をやめた。家に着いて、俺は鍵を開けてドアを開けてから、じゃあご飯作るね、と言いながらレジ袋片手にキッチンに向かった。  俺が伊織に頼んだことは二つ。そのうちの一つが、俺の作った料理を食べて行って欲しい、ということだった。伊織は、そんなの別に誕生日じゃなくても、と不思議がったが、俺にとっては特別な意味を持っている。  今まで料理を作らなかったのは、何も料理が苦手だからじゃない。一人の家で、自分のためだけに作る料理が虚しかったのだ。だから、一人じゃない食卓が欲しかった。誰かのために料理を作りたかった。それは今まで欲しくて欲しくてたまらなかったものだから、俺にとってはとても特別なものだった。 「何か、いいのかなあ。僕じゃなくて君の誕生日なのに僕がご馳走になっちゃって。……欲しいものが何かあったら明日にでも買ってくるから、何でも言ってよ?」  食事を目の前にしてもなお、伊織は重ね重ね言った。 「そんな……俺はこれで嬉しいから。むしろ、これすらもったいないくらい」  伊織は少し不満げに口を尖らせた。 「謙遜し過ぎだよ、雫は。雫のためなら何だって手に入れてみせるのに」  それが冗談じゃないことは分かっていたから、俺はさらに恐縮してしまった。甘えるのも頼るのも弱音を吐くのも全部すごく苦手なのに、こんなことを言われたら、恐縮しないはずがない。  こんな人が俺と付き合っていいはずがない。俺にはもったいなさすぎる。その思いはずっと喉元に引っかかっていたし、この先も引っかかり続けるだろう。でもそれを言えばきっと伊織は機嫌を悪くするから、黙っておく。  じゃあケーキ出そうか、と言いながら伊織はケーキの箱を持ってきてテーブルの上に乗せ、そこからケーキを取り出した。そこから出てきたのは、小さめのホールケーキだった。  俺が伊織に頼んだことのうち、二つ目がこれだった。――誕生日ケーキを買って、ろうそくに火をつけて、歌を歌ってほしい。俺がろうそくの火を消したらおめでとうって言ってほしい。それから一緒にケーキを食べてほしい。そう俺は頼んだ。  正直、これを頼むことすら冷や冷やした。引かれないだろうか、嫌がられないだろうか、迷惑がられないだろうか、そもそもこんなことをお願いするなんておこがましいんじゃないか――だけど伊織は、少し不服げにこう言ったのだ。 『そんなの、言われなくてもするつもりだったのに……そんなことでいいの? もっと他に欲しいものはない?』  それを聞いて、ああ伊織は暖かい家庭で育ってきて、そういう誕生日が当たり前なんだなと思った。同時に、俺のことを本当に愛してくれているんだ、とも。色んな感情が入り混じって、でも最後に嬉しい気持ちが勝って、俺は頷いた。  伊織が火をつけて、電気を消した。薄暗がりの中でオレンジ色の炎が優しく揺らめく。その揺らめきの向こうで伊織が笑っていた。 「ハッピーバースデートューユー、ハッピーバースデートューユー、ハッピーバースデーディア雫ー、ハッピーバースデートューユー」  ろうそくの立っているケーキ、暗い中揺らめく炎、誕生日の歌、笑顔、祝ってくれる人。夢にまで見た光景だった。それはこんなに――こんなに綺麗で暖かくて、胸が詰まるほど幸せな光景だったんだ。 『生きてるだけで迷惑なのあんたは! あんたが生まれた日が嬉しいはずないでしょ!』  ずっとそうだと思っていた。俺は生きているだけで迷惑をかけているんだと、俺が生まれた日なんて祝ってくれる人は誰もいないんだと。死んでさらに他人に迷惑をかけないために、それだけのために生きていた。  それを伊織は『君が生まれた特別な日なんだからちゃんと祝わなきゃ』と言ってくれて、当たり前のように生まれた日を祝ってくれて――俺がこの世に生まれてこうして生きていることを、祝ってくれて。  今まで空っぽだった胸が、暖かいものでいっぱいになった。そうか、俺がずっと欲しかったものは、これだったんだ。 「ほら、早く吹き消さないと」  伊織が急かす。オレンジの揺らめきに照らされた暖かい笑顔で。十七本も立てられたろうそくを見て、これは無理だよなぁなんて苦笑して、俺は吹き消した。一度吹き直したけれど全て消して、顔を上げた。伊織は手を叩いた。 「おめでとう! ――生まれてきてくれて、ありがとう」  暖かいものが込み上げてきて、俺は俯いた。綺麗だった。この世の何よりも、そう言って笑う伊織は、綺麗だった。  こんなに綺麗な人が俺のものでいいはずがない。幸せだと思えば思うほど、申し訳なくなった。バチが当たる気がした。 「……ごめんなさい。俺なんかに、ここまでしてくれて……本当に……ごめんなさい……ごめんなさ」不意に頬を引っ張られる。顔を上げると、不満げな伊織の顔があった。「何で謝るの? こういう時は素直に『ありがとう』でいいから」 「……ごめんなさい、こんなに幸せだと、罰を受ける気がして」 「何で? 誰が君に罰を与えるっていうの? 訳もなくすぐに謝るの、君の悪い癖だね。そんなに謝ってたら幸せが逃げるよ。だから、これからは『ごめんなさい』の代わりに『ありがとう』って言うようにしよう」  伊織は真っ直ぐな言葉を紡いだ。変われる気がする。伊織がいれば、ちゃんと自分を好きになれるかもしれない。そう感じた。 「ごめ……あ……ありが、とう」  口癖のように謝っていたから、慣れない言葉だった。慣れない言葉を口にして、慣れない心からの笑顔を浮かべた。  きっとそれは、まだまだぎこちないものだったと思う。だけど伊織は立ち上がって、「綺麗だよ、雫」なんて笑って、俺を抱き締めてくれた。伊織の優しさと暖かさと愛しさで、言葉より先にまた、涙が溢れた。今日は泣いてばかりだ。でも、不思議と心地良かった。

ともだちにシェアしよう!