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4ずっと一緒になんて

「……真空さん、まだ足着きますよ」 「む、無理だって、溺れる……」  泳げない真空さんを気遣って足の着かないくらい深いところには行かなかったが、それでも真空さんは怖いらしい。俺にしがみついたまま離れない。  可愛いと思った。小さな子供のように怖がるのも、そんな姿を見せてくれるのも。 「そんなに怖いなら、上がります?」  そう問いかけたが、真空さんは「せっかく海に来たから」と首を振った。だけど真空さんはずっと俺にしがみつくだけ。何のために海に入っているのか分からないが、真空さんがそれでいいならいいか、と俺は真空さんの頭を撫でて苦笑した。  しばらくして落ち着いてきたのか、真空さんは必死に俺にしがみつくことはやめ、それからようやく足が着くことに気付き、ほっとした表情を見せた。だけどまだ怖いのか、それともただそうしていたいのか、俺の体に腕は回したまま。  そのうち真空さんは、俯いて顔を赤くし始めた。不思議に思って「どうしました?」と問いかけると、真空さんはいや、と歯切れ悪く答えた。 「抱きついてたら、体、引き締まっててかっこいいなって改めて思って……」  言い終わると、真空さんはさらに顔を赤くした。白い滑らかな頰に差す赤が堪らなく可愛いと思って、俺は真空さんの髪をさら、と撫でた。俺の手に真空さんの髪が絡む。そのまま手を滑らし、顎を掬い、口付けた。 「へい、……っん」  少し驚いたような表情になった真空さんだったが、すぐに俺に委ねた。俺は甘く優しく舌を絡み合わせてから唇を離した。とろんとした瞳になった真空さんは、俺の肩に顎を乗せるように顔を近付け、さらに強く抱きしめてきた。 「好きですよ、真空さん」  再度髪を梳りながら囁くと、僅かに身じろぎをしてから真空さんは、こくんと頷いた。「……俺も、好き」  それから俺は頭上を見上げて、笑った。 「綺麗ですよ、空。嫌なこととか辛いこととか、全部どうでもよくなっちゃうくらい青いです」  真空さんもつられて見上げ、「本当だな」と笑った。  夏の青空は綺麗だ。どんな季節の空よりも深く澄み渡っている。その空は、何もかも全てを抱擁するような壮大な青さを湛えている。 「平太」 「何ですか?」 「……俺、今幸せだ」  真空さんは空を仰いで、ふと、囁いた。静かな声色の中に、隠し切れない切なさが混ざっているような気がした。 「どうしたんですか、改まって」  真空さんは口を開きかけたが、「何でもない」とすぐにかぶりを振った。真空さんは確実に、俺に大切なことを隠している。それは分かっていたけれど、真空さんが『今は話したくない』と言ったのだ。だから俺は、何も聞かずに「そうですか」と頷いた。  結局、辛うじて泳いだと言えるのはその時だけで、後はずっと砂浜に座ったり、波打ち際を歩いたりしていた。そして気付けば、日が暮れていた。  俺と真空さんは、茜色に染まる海を横目に、波打ち際を歩いていた。会話はなかったが、不思議と快かった。 「……あ、真空さん、あれやります? 砂浜で追いかけっこ。よくドラマとかであるやつ」  冗談のつもりで言うと、真空さんは案の定苦笑した。 「いや、遠慮しておく。無駄に疲れそうだ。それにあれは、何の意味があるんだ?」 「ですよね、俺も正直そう思います」 「じゃあどうして言ったんだ」 「何となくです」  そう言って、笑い合った。そして会話はまた途切れた。沈黙が心地よいのは、すごいことだと俺は思う。何も話さないけれど、心が通い合っているように感じる感覚、それが不思議だと思うのだ。 「……平太」 「何ですか?」  振り向くと、真空さんは立ち止まっていた。沈む直前の赤々とした太陽に照らされる真空さんの顔は、綺麗だった。 「好きだ。ずっと一緒にいたい」  真空さんは、自分からそういうことを言う人じゃない。俺に言われるだけで、顔を真っ赤にして何も言えなくなるような人だ。それに――好きだ、なんて言葉は、そんなに辛そうな顔で言うものじゃない。 「真空さん」どうしたんですか、と尋ねようとして、やめた。「俺は真空さんと、ずっと一緒にいるつもりでいます。ほら、お互い高校を卒業したら、一緒に暮らすって約束してるじゃないですか」 「……そうだな」  真空さんは微笑んだ。後ろでは日がまさに沈もうとしている。朱色から薄紫色、紺色の空のグラデーションが綺麗だ。だけどそれに劣らず、真空さんの微笑みは悲しいくらいに綺麗だった。

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