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8永遠の片思い

 泰平の行動力は目を見張るものがあった。泰平はそれから毎日そのカフェに通いつめて、その店員、百合さんを口説いて、何と一ヶ月足らずで自分の彼女にしてしまった。  私は馬鹿だった。この関係がずっと続く、という意味を理解していなかった。つまりそれは、泰平が他の誰かと幸せになる姿を一番近くで見続けて、それを祝福しないといけない立場にある、ということだったのに。こうなってからようやく、私は後悔した。  今の妻、雅子に告白をされたのはそんな時だったから、つい了承してしまった。自棄だった。雅子には悪いことをしてしまったと思っている。  やがて大学を卒業し、泰平と過ごす時間は大幅に減り、泰平よりも雅子とより長く過ごすようになったからか、少しずつ泰平への気持ちは薄れていった。否、落ち着いていったというべきか。以前ほど激しい想いはなくなっただけで、変わらずずっと好きだったから。ただ、泰平のことを考える時間が減っただけだった。  雅子に対しては常に申し訳ない思いがあった。泰平のことを忘れられたと思えば、またふとした拍子に想いが再熱して、を繰り返していくうちに、いつしか決して消えないほど深い想いになってしまっていたから。  私はずるくて意気地なしな人間だ。泰平のことを本当に忘れたいのなら、さっさと告白して振られてしまえばよかったのに。そうできるほどの勇気は持ち合わせていなかった。  それか泰平のことを本当に愛しているのなら、別の誰かとは付き合わず、ずっと片思いを続けていればよかったのに。されど雅子と過ごす幸せも、失いたくはなかった。  そしてどっちつかずの状況でいるうちに、泰平は結婚を決めてしまった。そう告げられた時自分は笑顔でおめでとうと言えたのか、よく覚えていない。泰平の結婚式で自分はちゃんと祝福できたのかも、よく覚えていない。あまりにショックが大きくて。  考えれば、こうなるのは分かっていたはずなのだ。だけど私は、考えたくなかった。考えるのを避けていた。  泰平の想いを引きずったまま、さりとて雅子とも関係を断ち切らないままにずるずると日々を過ごしていた。今思えば、これが間違いだったのかもしれない。泰平が、子供ができたと私に伝えてきた次の月あたりに、雅子から告げられたのだ。『私、妊娠したみたい』と。  もちろん、嬉しかった。雅子のことは紛れもなく本当に愛していたから。愛する人からの子供ができた、という知らせを聞いて喜ばない男がいるものか。私も父親になるのかぁなんて感慨深く思いすらした。だが心のどこかで、ああ、これで全てが手遅れだ、とも思った。  その知らせを聞いた後日、改めてプロポーズをした。そしてきちんと籍を入れて、結婚指輪を二人で買いに行った。幸せだった。確かに幸せだったが、これで本当によかったのか、という後悔は常に付きまとい続けた。  だがお互いに子供が生まれ、それなりに忙しく過ごすうちに、本当に泰平への気持ちが落ち着いた。雅子と伊織への後ろめたさも徐々に薄れていった。昔はあんなに好きだったなぁなんて思いすらしたのだ。  ――泰平が、泰平が百合さんに逃げられたと泣きついてきた時までは。  泰平に呼びつけられて行きつけのバーへ行くと、泰平は既にかなり酔っていた。泰平はかなりザルだから、ちょっとやそっとじゃ全く酔わないはずなのに。一体どれだけ呑んだのだろうと思わず心配になった。泰平は私の姿を認めると、水を飲むように酒を呑みながら、私に百合さんへの恨みつらみを吐いた。  話を総合するとどうやら元々、泰平曰く嫁が全く使い物にならない、そして百合さん曰く泰平の亭主関白ぶりが嫌だ、とお互いに不満は抱えていたらしい。  喧嘩の収拾がつかなくなると泰平は記入済みの離婚届を突きつけていたが、そのたびに百合さんが泣きついてきて何とかなっていたのだそうだ。  だけど大喧嘩をした翌日の朝、判を押した離婚届が机の上に置かれ、荷物と一緒に百合さんが消えていたらしい。  泰平は何度も同じ話を繰り返し、同じ恨み節を口にしていた。そんな泰平は痛々しくて、私は根気強く相槌を打って慰めていた。  それからどれくらい経っただろう。いつもはどれだけ呑んでも顔色ひとつ変えない泰平の顔が赤くなったのをみて、私は流石に体が心配になり、まだ呑むと言い張る泰平を無理やり家に引っ張った。  嫁がいなくなり、今日だけは顔が見たくないと言って真空くんを私の家に預けたからか、泰平の家はひどく寂しくて静かだった。その時『この家はこんなに広かったんだな』と呟いた泰平の悲しそうな目は、今でも忘れられない。 『はい水。とりあえずこれを飲んで、少しは落ち着いて』  ソファに座らせてからコップに入れた水を差し出すと、泰平は黙って飲み始めた。 『それだけ呑んだら、明日が辛いだろう。二日酔いの薬……はないよね。君は酔わないから。なら、私が買ってくるから待っ――』  その時、泰平に腕を掴まれた。少し意外に思って泰平を見ると、泰平は縋るような目をしていた。 『一人にするな』  忘れたはずの想いが、蘇りかけた。私は慌ててそれを断ち切ると、泰平の隣に座った。

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