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9永遠の片思い
『――俺が悪いんだろうな』
泰平はしばらく黙っていたが、遠い目をして、ふと呟いた。首だけ傾げると、泰平は続けた。
『俺なりに愛していたつもりだった。だが、あいつからすれば窮屈だったんだろう』
私は何とも返答しづらかった。確かに、泰平は厳しい。それから気持ちを伝えるのが下手だ。私は泰平の厳しさも不器用さも含めて好きだったが、確かに窮屈に感じるのも仕方がないだろう。
『なあ、靖仁もそう思うだろ? 気は遣わないで正直に言ってくれ』
困った私は、素直に言った。
『百合さんがそう感じるのも無理はないだろうね。確かに、泰平が悪い。だけど百合さんは泰平の特徴を分かっていて結婚したはずだから、百合さんにも非はある。それにいきなり離婚届を置いて逃げるのは、あまりにも無責任過ぎる。どちらにも非はあると思うよ』
『どうすればよかったんだ、俺は』
『……君が少しだけ素直になれば、もう少し上手くいっていたかもしれないね。だけど、そんなことを今考えたって仕方がない。きっと、こうなる運命だったんだよ』
泰平は、そうか、と囁いた。そしてまた、黙り込んだ。
泰平は、無言で家の中を眺めていた。色々なことを思い出しているんだろうな、と思った私は、ただ黙って隣に座っていた。
『……これから、一人で真空を育てていけるか不安だ』
少し酔いが覚めたのかもしれない、泰平の口から始めて、「百合」以外の言葉が出てきた。
『君なら大丈夫さ。それにもし何かあれば、私が助ける』
そうか、と泰平は微かな声で囁いた。それから、シャワーを浴びてくる、と立ち上がった。
『大丈夫かい? まだかなり酔っているだろう』
大丈夫だ、と答えようとした泰平だったが、途中で言葉を止め、待っていてくれ、と言い残して浴室に消えた。
泰平が浴室から出てきたのを確認して、私はソファから立ち上がった。
『大丈夫そうだね。じゃあ、私は帰るよ』
そう言ったが、泰平は待て、とすぐに遮った。私が立ち止まって泰平の言葉を待っていると、泰平は躊躇いがちに続けた。
『……一人になると、百合のことを思い出す。だから、一人にしないでくれ』
泰平の目は、あまりにもか弱かった。泰平らしくない。それは、泰平がどれだけこたえているのかを如実に物語っていた。断れるはずがなかった。
『分かったよ。待っててくれ、今雅子に電話をかけるから』
電話の向こうの雅子は、少し眠そうな声をしていた。私が事情を話すと、『泰平さん、立ち直れるといいわね』と言い残して電話が切れた。雅子は本当にできた女性だ。私以外の男と結婚した方が幸せになれたんじゃないか、とは、今でも時々考える。
『なら、私もシャワーを借りていいかい?』
泰平が頷いたのを確認して、私は居間を出た。
泰平は居間にはいなかった。探すと、寝室にいた。泰平を見つけた私は、思わず言葉を失った。
泰平は、部屋に飾ってある家族の写真を見ながら、泣いていたのだ。泰平は普段は誰にも、私にすらも泣き顔を見せない。呑んだくれていた時も、一滴たりとも涙をこぼさなかった。
泰平はゆっくりと私の方を振り向くと、くしゃ、と顔を歪めた。あまりにも痛々しくて、私は無言で泰平を抱きしめた。
『……本当に、俺は馬鹿なことをした。俺は――』
『それ以上言わなくていい』私はこれ以上聞いていられなかった。『君だけが悪いんじゃない。もうこれ以上、自分を責める必要はないから』
泰平は、声を出さずに泣いた。それからぽつりと、滲んだ声で呟いた。
『結婚したのが、お前だったらよかったのに』
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