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5忘れかけていた夢

 舞台裏の風景を眺め、俺は柄にもなく感慨深い気持ちになった。去年もここに来た。去年は真空さんが緊張していたが、今年は雫がガチガチに緊張している。 「失敗しねえよ。あんだけ練習したじゃん」  失敗するかもなんて考えては、余計縮こまって失敗してしまう。そう思って声をかけたが、雫は真っ青な顔で「そうだな……」と呟いて終わりだった。  俺はそんな雫を少し心配しながら、暗い舞台裏とは対照的の光溢れた舞台へと踏み出していった。  俺は舞台に踏み出して、アラジンを演じながら、どんどんと気持ちが高まっていくのを感じていた。去年はあまり感じなかった高まりだ。去年は初めての上、いきなりシェイクスピアだったから、少しでも気を抜いたら台詞を忘れてしまいそうな緊張感があった。今になって分かったが、多分俺も余裕がなかったのだ。  視線が俺に集まっている。それをはっきりと感じる。快い注目のされ方だと思った。努力をした結果で注目されることは、決して嫌なものじゃないのだと初めて知った。  楽しい。単純に、楽しかった。  この瞬間俺は、紛れもなく、砂漠の都市アグラバーに住む貧しい青年アラジンだった。生きるためさとうそぶいてパンを盗み、衛兵に追われる盗人のアラジンだった。台詞がどう、練習がどう、じゃなくて、どう動けばいいのか体が分かっていた。  ここ最近悩んでいたことも忘れて、俺は芝居に没頭していた。どんな思考もこの晴れやかな快感の前には無力でしかないとすら感じた。  そうやって劇は続き、ホールニューワールドを歌うところまできた。俺は雫――いや、この時は役に入り込んでいたからジャスミンと言うべきか――の手をとって、上を仰いだ。夜空を見上げるように。  やがて歌い始めた。俺と雫――アラジンとジャスミンの歌声が溶け合いながら舞台に響いていくのを感じた。雫の歌声は今までにないくらい、透明感のある綺麗なものだった。  いつまでも、と最後のフレーズを歌いながら見つめ合う。満たされた気持ちになった。それは、歌が上手くいった満足感からなのか、それとも役に入り込んでいたが故のジャスミンへの愛しさだったのか、分からなくてもいいと思った。俺と雫は見つめ合ったまま、互いに微笑んだ。 「ああ、夢みたいだわ」  雫の台詞が聞こえた。俺もそれに続いて、そうやって劇は最後まで、つつがなく進んでいった。  ――終わった後、雫は笑顔だった。写真撮影の時も人一番楽しそうで、俺まで少し嬉しくなった。  劇は大成功したのだ。最優秀賞を獲得することができた。渉には、お前がいるから当たり前だろ、なんて笑い飛ばされたが。 『――俺さ、オーディション受けてみようと思うんだ』  雫は舞台祭が終わって開口一番、そう言った。本気で歌手を目指し始めるのだそうだ。全力で応援するぜ、と俺は言っておいた。  舞台祭の出演者は、撮影が終わった人から自由解散なんだそうだ。雫は終わるや否や、小深山先輩に駆け寄って嬉しそうに話していた。俺も真空さんを探そうとしたところで――ふと声をかけられた。 「明塚くん。お久しぶりです」  見ると、去年スカウトを受けてそれから何度か電話越しにもスカウトを受けた、高山さんが立っていた。 「お久しぶりです、高山さん」  一礼をすると、高山さんは少し興奮気味に「素晴らしかったですよ!」と俺に言ってきた。 「いやぁ、君がダンスも歌もできるとは。ますます君のような逸材を逃す訳にはいきません。どうです? 今ならすぐにデビューできることを約束しますよ」  怪しい通販番組のような言葉に眉をひそめると、それを待っていたように「というのも」と続けた。 「今、とあるラブコメのドラマの役のオーディションがうちの事務所に回ってきていまして、この役が是非とも現役高校生を起用したいそうで……これだけの実力があれば君は、間違いなく合格できると思うんです。残念ながら事務所に来ているオーディションなので、所属していただかないと受けることはできませんが」  いつのまにか辺りがしんと静まり返っていた。高山さんの声だけが聞こえる。俺が迷って視線を揺らすと、高山さんは資料を取り出して俺に手渡してきた。  どうやらそのオーディション内容について書かれた紙のようだ。それは、火曜十時から放送のドラマの、主人公の同級生役のオーディションだった。  この業界に疎い俺でも、あり得ないほどの好待遇であることは理解ができる。そして、一年間もずっとスカウトを受けていたのだから、詐欺の類ではないことも分かる。  どうすればいいか分からず、何となく周りを見回すと、少し離れたところから不安そうに見つめてくる真空さんと目が合った。訴えかけるように真空さんを見ていると、真空さんは察してくれて俺の方へ歩み寄ってきた。 「……真空さん、どうすればいいと思います?」 「平太はどうしたいんだ?」  問い返された。最もだ。……俺はどうしたいのだろう。  確かに、演じることは楽しかった。ただただ台詞の難解さに気を取られていた去年よりもそれは、強く感じる。この先もやっていきたいかと言われれば、やってみたいとも思う。けれど、芸能人という肩書きに腰が引けてしまうのだ。自分が今まで選んできた道とはあまりにかけ離れていて、よく分からない。  俺は平凡でいたかった。それは多分、今までの嫌な記憶がそう思わせるのだ。目立つことそのものが嫌いなのではなく、目立つことによって被る被害が嫌なのだろう。俺は何も望まないようにして、ただ平穏に過ごすことだけを望んで、そうやって自分を保ってきたのだ……と思う。  だけど今は、何があっても真空さんがいれば乗り越えられる、だからそうやって面倒事を避けるのはむしろ、得るはずだった幸せを逃してしまうことに繋がる、そう思う。現に俺は、一生に一度あるかないかの好機を、みすみす逃してしまいそうになっている。 「やってみたい、とは思います」 「なら挑戦してみればいいだろ。何を迷うことがある? リスクを冒すのが怖いのか?」 「そう……ですね。もしもずっと売れずにくすぶってたら……って思うと怖いですし」 「それなら、売れなかったら俺が平太を雇う。それで問題ないだろ?」  真空さんは案外真剣な顔で言う。真空さんは映画が好きだというから、俺に俳優になってほしいと密かに願っていたのかもしれない。  問題はない――けれど、怖い。ここで進む道を決めてしまうのが怖い。昔から何となく目指していたサラリーマンになるという目標を捨ててしまうのが怖い。何より――自分を変えると決意することが、怖い。俺は省エネでの生き方しか知らない。だから、挑戦することを知らないのだ。  迷って迷って、俺は高山さんに「すみません、兄に電話をしても構いませんか」と申し出た。もちろん、高山さんは快諾してくれた。  コール音を聞き続け、しばらくしてようやく兄貴が不機嫌そうな声色で出た。 『んだよ平太。今千紘といい感じだったんだけど』  普段だったら軽口の一つや二つ叩いていたところだが、当然そんな余裕はなかった。 「兄貴、話があるんだけど」  恐らく兄貴は俺の軽口に反応する気満々だっただろうが、少し黙ってから『どうした?』と引き締まった声で問いかけた。 「俺今、スカウト受けたんだけど。あ、ほら、いつも電話がくる――」 『高山さん』 「そう。その人と話してて、それで……」  兄貴は黙っていた。恐らく、俺が何を言いたいかは分かっただろう。それでもきっと、俺の口から聞きたかったんだろう。 「……俺、やってみたいんだ、俳優」 『やってみな』  兄貴は即答した。それからもう一度力強く『やってみな、平太』と言った。  兄貴の力は偉大だ。兄貴の言葉一つで、もやが晴れるみたいに、一気に迷いがなくなった。やっぱり家族なんだと思った。  俺は、分かった、と返事をして電話を切ると、高山さんに向き直った。高山さんはそれを待っていたように、俺に尋ねた。 「明塚くん。俳優になって、僕たちと一緒に夢を掴んでみませんか?」 「――はい、是非」

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