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9こんな服装なんて聞いてない
洗い終わった真空さんは、俺に包丁を差し出した。
「俺、手際が悪いから見ててイライラするだろ? だから平太がやってくれ」
「しませんよ。あたふたしてる真空さん、可愛くて好きですから」
また真空さんの顔が赤くなった。
「でっ、でも……こんな調子じゃいつまでも終わらないから」
そう言われてしまっては仕方がないので「そうですか? 分かりました」と答えて俺は包丁を握った。……真空さんの手の上から。
「平太っ……何を、」
俺は何も答えずに、そのままきゅうりを切った。真空さんは耳まで赤くなっている。少しからかいたくなって、そこに優しく息を吹きかけると、「ひぁうっ」と体を震わせた。
「感じちゃいました?」
耳元で囁くと「うぅ……」と真空さんは赤い顔で唸って俯いてしまった。思わず笑みがこぼれてしまう。どうして真空さんはここまで可愛いんだろう。
それから、その状態でさっさときゅうりを切り終えてトマトに取りかかったところで、ぽつっと真空さんは呟いた。
「……すごいな」
「包丁握ってきた年数が違いますよ」
「いつから料理をしてたんだ?」
問われて、俺はトマトを切りながら考えた。
「そうですね……確か、小四くらいにはもう料理してたかな」
そのくらいの時期は既に父親が家を空けるようになりだし、兄貴が夜遊びをし始めていたから、包丁を握らざるを得なかったのだ。
といっても兄貴は変にマメな男だったので、大抵は俺の分の晩飯と朝飯を作り置きしてから夜の街に繰り出していたが。恐らく、俺に負い目を感じていたのもあるだろう。
「すごいな。俺はそれくらいには確か……習い事しかしていない」
「習い事? 何の習い事ですか?」
「学習塾と習字とそろばんと英会話と水泳と……あとは父親が休みの時にはコンサートや舞台、美術館に連れていかれた記憶がある」
「……その方がずっとすごいですよ」
想像以上の英才教育を受けている真空さんに、驚いた。俺はそのどれも行ったことがない。
「そんなことはない。そのせいで、ここまで世間知らずに育ったんだから」
真空さんは苦い顔でかぶりを振る。
「いやいや、少し世間知らずなくらいがちょうどいいと思います。俺みたいに世間擦れしてるのも困りますよ、穿った見方しかできなくなるので」
そう言ったが、真空さんは納得しかねるように首をひねった。
考えれば考えるほど、真空さんと俺は正反対だと思う。こうやって二人でいられるのが不思議なくらい。だけど、お互いにないものをお互いが持っているから、こんなに好きでいられるのか……なんて柄にもないことを考えてしまい、少し恥ずかしくなった。
そんなことを話していると、全て切り終わったので、真空さんの手から手を離し、さっさと盛り付けた。少し残念そうな顔をしていた真空さんが可愛かったので軽くキスをすると、真空さんは顔を赤くした。
真空さんは何を食べる時でも上品な食べ方をする。皿はほとんど汚さないように食べるし、ゆっくりとスプーンや箸を口元に運ぶし、極力音を立てずに咀嚼をするし、ものが口に入っているときに喋ることは絶対しない。それから、きちんと手を合わせて「いただきます」と「ごちそうさまでした」を言う。
それは、俺が片手間にさっさと作ったカレーでも同じだった。自分の食べ方が汚いとは思わないが、真空さんと比べるとどうしても劣る。だがそのせいか、毎回俺の方が先に食べ終わる。
「あまり見ないでくれ」
真空さんを見ていると、少し恥ずかしそうに真空さんが言う。
「……真空さんって食べ方がすごく上品ですよね」
真空さんは首を捻って、口の中のものを飲み込んで水を少し飲んでから、言った。
「そうか? 普通だと思うが」
「普通じゃないですよ。やっぱりテーブルマナーとか習ってました?」
「ああ……幼い頃に叩き込まれた」
真空さんが苦い顔をする。よほど厳しい躾だったんだろう。
真空さんはただカレーを食べているだけだが、いくら見ていても飽きない。これは相当惚れているな、と自分でも思う。
「……暇じゃないか? 先に風呂に入っていても構わないが」
「暇じゃないですよ、楽しいです」
真空さんは不思議そうな顔をした。
「食べてるだけなのに?」
「はい。真空さんが目の前にいるってだけで楽しいですから」
真空さんは顔を赤くした。それから視線を下に落として、もごもごと言った。
「そ、そうか……でも、俺は観察されてる気がして落ち着かないから……」
「そうですか?」なら風呂に行こうか、と腰を浮かしかけて、あるいいことを思いついた。「じゃあ真空さん、スプーン貸してください」
「スプーン?」
真空さんは首を傾げつつも、すんなり俺にスプーンを渡した。
俺はそのスプーンで真空さんのカレーを掬い、それを差し出した。
「真空さん、あーん」
真空さんは一気に顔を赤くした。戸惑うように視線を彷徨わせ、観念したように一度ぎゅっと目を瞑ると、ぎこちなく「あ、あーん」と口を開けた。
一瞬、手が止まった。それくらい可愛かった。こんなに可愛い顔であーんされる高校三年生が他にいるだろうか。いや、いないに違いない。
スプーンを真空さんの口の中に入れると、真空さんは恐々とそれを咀嚼した。
「美味しいですか?」
真空さんはそれを嚥下した後、耳まで赤くして呟いた。
「は、恥ずかしくて味が分からない……」
結局残りのカレーは全て、真空さんの可愛さに負けた俺があーんして食べさせてしまった。
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