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3僕が絶対守るから
「――雫!」
顔を綻ばせた彼が俺の方へ駆け寄ってくる。俺は身動き一つ取れなかった。
「知り合い?」
伊織の不思議そうな問いにも、全く答えられなかった。呼吸が浅く早くなる。彼は俺の前に立つと、頰を上気させて言った。
「大きくなったなぁ、お前!」
彼は、――小五の頃から約一年ほど一緒に暮らし、毎日のように俺を力ずくで犯していた養父だった。
彼は断りもなく俺の隣の席に座ると、にこにこしながら俺を見た。俺はただ蛇に睨まれた蛙のように、体をこわばらせることしかできなかった。
「……雫、その人誰?」
伊織がまた問いを投げた。しかし、さっきは単純に不思議そうだったが今は、彼を警戒する様子と俺を心配する様子が見てとれた。俺はとっさに、伊織に心配をかけちゃいけないと思ったので、慌てて笑顔を見せた。
「昔、俺の父親だった人」
「ふうん」
伊織の眼光の鋭さが和らいだ。俺がちゃんと笑えたからか、それとも父親という言葉に安心感を覚えたか。彼の記憶は一番と言っていいほどのトラウマで、思い出すのすら嫌だったから伊織に話していないのだ。
「雫、本当に大きくなったな……お母さんと別れてからずっと、お前を一目見ることすらできなかったからなぁ。もう……五年ぶりかな? 本当に会えてよかったよ」
母親と別れてから一目見ることすらできなかったのは、俺と性交をしていることが発覚して心底気持ち悪がった母親が、彼を徹底的に避けたからだ。彼と別れた後しばらくは、母親から理不尽な暴力を受けたっけ。
顔が引きつりそうになる。それでも俺は、必死に笑顔を浮かべた。伊織に心配をかけたくなかった。
そして彼は、あろうことか伊織にこう提案した。
「雫のお友達かな? 少しの間だけ、雫と二人にさせてくれない? 久しぶりに会えたんだから、少し親子で会話がしたいんだ。ほんの数分でいいから」
伊織は彼を観察するように眺め、そして俺に「大丈夫?」と尋ねた。大丈夫、と尋ねる辺りが、少し見抜かれているような気がする。
本音を言えば、彼と二人きりにしてほしくない。今すぐここから逃げ出したい。けれど俺の変な遠慮が、それを許さなかった。
「うん」
何とかそれだけ絞り出すと、分かった、と伊織は渋々頷いた。彼が人当たりの良さそうな清潔感のある見た目をしているのも、信用する根拠となっているだろう。
そして伊織は千円札を机に置くと、もう一度心配そうな視線を俺に向けて、一礼して店を出て行った。
伊織が出ていくや否や、彼は体を寄せ、俺の腰を抱いてきた。肌が粟立つ。
「雫ぅ……本当に綺麗になったなぁ……ますます美人になった……本当に会えてよかった。お父さんは、ずーっと、お前と会いたかったんだよ……」
彼は腰を抱いたまま囁いてきた。ねっとりと絡みつくような不快な声に、冷や汗が吹き出る。歯の根が合わなくなる。
「雫、お母さんは今どうしてる?」
「わ、若い男と逃げて、後は知らないっ」
声が変に上ずる。早くここから逃げ出したかった。
「それはひどいなぁ……お父さんなら絶対そんなことしないのに……じゃあ今、一人暮らし?」
「そう、だけど、親戚のおじさんに、お金は出してもらってるから、大丈夫」
「そっかぁ……でも一人じゃ寂しいだろ? 雫は寂しがり屋だったからなぁ……」
空いている方の彼の手で、太ももを舐めるように撫で回される。悪寒が走って吐きそうになった。
助けを求めたくて思わず周りを見渡したが、誰一人、店員すらこちらに注意を払っていない。絶望感で泣きそうになった。
「大丈夫、友達、いるから」
「友達ができたの? それはよかった……でも、一緒に暮らす家族がいた方がいいよなぁ?」彼は俺の耳元に口を寄せた。「また一緒に暮らそうかぁ、雫」
背筋が凍りついた。必死に押さえつけていたトラウマが洪水のように襲いかかってくる。
「や、やだ、俺、一人で、暮らす」
「……急に言われても、ピンとこないか。ゆっくり考えなさい。……ところで、前と同じ場所に住んでるの?」
答えられなかった。実際に、お母さんがいた頃と同じアパートの同じ部屋に住んでいたから。
「同じ場所か。じゃあまた今度、会いに行くからね。……愛してるよ……お父さんの、可愛い可愛い雫……」
その言葉と共に、頬を撫でられる。鳥肌が立った。その時、視界にカフェの外で待つ伊織の姿が目に入った俺は、とっさに彼の手を振りほどいていた。そして後ろも振り向かずにその場を走り去った。
「ふふ、雫は相変わらず、恥ずかしがり屋さんだなぁ……」
背後から聞こえた彼の声は、聞こえないふりをした。
「あ、早かったね。どんな話を――」
カフェから出てきた俺にそう言いかけた伊織だったが、俺の顔を見て、表情を凍りつかせた。
「行こう」
俺は早く彼から離れたくて、伊織の手を引いてとにかく歩いた。ようやくそのカフェが見えなくなって俺が歩く速度を緩めると、伊織は人気のない裏路地に引っ張って、俺と向き合った。
「大丈夫? どうしたの?」
その優しい声を聞いたとき、伊織には心配をかけたくない、という変な遠慮を忘れた。必死に堪えていたものが、一気に決壊した。
「伊織……」
地面がぐらりと揺らぐ。倒れこみそうになり伊織に支えてもらって初めて、揺らいだのは地面じゃなくて自分だと気付いた。
「雫?」
伊織の顔は蒼白だった。そんな顔で、壊れ物を扱うように優しく俺を抱きしめた。そしたら安心して、俺は声を上げて泣いてしまった。
「……あの人のせい? 何でも聞くよ、だから僕に話して」
伊織の声は震えていた。俺はうなずいて、途切れ途切れに話した。
「あのね、俺っ……あの人に昔、レイプされてて……あの人のせいで、俺、援交するようになっちゃってっ……」
伊織は絶句した。その後、俺のことを強く抱きしめてきた。
「ごめんね……ごめんね雫、そんなやつと二人きりにしちゃって……怖かったよね、本当にごめんね……」
伊織の声は震えていた。一度泣き始めたら止まらなくて、俺はしばらく泣きじゃくった。
脳裏にいくつかの場面がフラッシュバックした。嫌だと泣いても粘ついた笑みを浮かべていた、彼の顔。屈辱的なことをさせてはいい子だねと俺の頭を撫でていた、彼の汗ばんだ手。そんな不快な相手からの愛に縋ってしまっていた、弱い自分。毎日に希望が何一つ見いだせずにいつも淀んだ目をしていた、鏡に映る自分の顔。
自分があの頃に戻ってしまったかのような錯覚を覚えた。怖くて怖くて、伊織に縋り付いた。そしたら伊織はそんな俺を、しっかりと受け止めてくれた。
「大丈夫だよ、安心して。僕が君を絶対守るから。何があっても、必ず守るから。だから大丈夫だよ、雫」
「ありがとうっ……ありがとう伊織……」
俺は泣いた。しばらく伊織の胸で泣いた。あの頃飲み込んだ涙の分、泣き続けた。あの頃癒せずに膿んだ傷を癒すように、泣き続けた。
伊織は俺が落ち着くまでずっと、背中をさすってくれた。だから俺は、安心して泣けた。体感にして何十分か経ってようやく、俺は落ち着いて顔を上げることができた。すると伊織まで目元を赤くしていた。
「……何で、伊織が泣くの」
伊織は少し決まりが悪そうに言った。
「君をこんなに泣かせた自分が情けなくて。ごめんね、気付けなくて」
その言葉でまた泣きそうになった。普通だったら何十分も泣きっ放しの人を慰め続けるなんて、面倒だと思われて普通なのに。
「ううん、こうやって慰めてくれて本当にありがとう」
伊織はそんな俺を愛しげに撫でると、ふと問いかけた。
「ねえ雫、あの人の名前って何?」
「え? ……確か、大江兼助、だけど……何で?」
「けんすけ、って、健康の健に仲介の介?」
「ううん、兼ねるって字に助けるって字……でも何で、」
「何をしててどこに住んでる人?」
俺の質問には一切答えず、淡々と彼の個人情報を聞き出そうとする伊織。どうしてだろうと伊織の顔を見上げると、伊織は悠然と微笑んでいることに気付いた。……伊織がこういう顔をしている時は大抵、キレている時だ。
「どこに住んでるかは……分かんないけど、確か、IT系の会社を起業した人だったはず。多分今も……」
「ふうん。IT系の会社の社長、大江兼助か。分かった、ありがとう」
「でも、何で?」
再び尋ねると、伊織はにっこりと笑った。
「――雫は気にしなくていいからね」
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