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2. Voiceless Wish 11
じゃあ今、遺体が横切ったんだ。そう思うと何とも言えない気持ちになった。
司法解剖は、犯罪性のある死体や、その疑いのある死体の死因などを究明するために行われる解剖だと授業の一環で習ったことがある。ここの法医学教室が司法解剖の指定医となっているというのも聞いたことがある。
俺はいざ死体を目の前にしたら怖いと思ってしまうだろうし、ましてや解剖だなんてとんでもない。法医学は未知で無関係な分野で、一生関わることもないだろう。
だけど、乃空にとってはなぜかそうじゃないらしい。法医学の参考書をいつも持ち歩いているし、年に二回行われる法医学教室の公開授業には必ず参加する。法学部なのに法医学を熱心に勉強してるなんて、ちょっと変わってるなと思う。
『これはね、僕の趣味なんだ』
以前、不思議に思って尋ねたら、そんなことを言われたことがある。
『ここの法医学教室に尊敬してる先生がいる。僕は別に法医学を志してるわけじゃないんだけど、少しでも理解できたらいいなと思って』
そんなことを口にして、乃空は幸せそうに目を細めて微笑んだ。
まるで法医学に恋をしてるみたいに。
あの時と変わらないきれいな眼差しで、乃空は今も俺の知らない何かを追いかけている気がした。
「うちの大学はもともと臨床法医学を研究してるんだけど、近いうちに法医学研究センターができるんだ。児童相談所から嘱託を受けて、虐待で亡くなったと疑われる子どもの解剖を引き受けたり、子どもの怪我を診察して虐待を受けているかどうかの判断をしたりするんだって」
「へえ」
法学部には関係ないことなのに、よく知ってるなと舌を巻く。
医学部に進学して法医学者を志望する者は少ない。それは、医師でありながら生きた人間を診察することがないからだ。ほぼ大学に残ることしか道が残されていない上に、給料も良くない。そんな話を乃空から聞いたことがある。
「法医学者は解剖を通じて死者の声を聞くお医者さんだ。だから、人の体にできた傷の原因を探ることが得意なんだって。法医学の知識で虐待を見極めることができれば、人の命を救うことに繋がるんだろうね。遺体ばかりじゃなく生きた人間を診ることもできるなら、法医学の未来は拓けるのかもしれない」
死者の声を聞く医者。
まるで魔術師だなと思いながら、ふと気づく。
児童相談所と提携するということは、いつか海里がここに来ることもあるのかもしれない。
そう考えるとなんだか不思議な気分だった。
「……あのさ、つまんないことなんだけど、訊いてもいいか」
「もちろん。どうしたの?」
きょとんと大きな目をこちらに向けてくる乃空に、ここのところ抱いているモヤモヤした考えを衝動に駆られてぶつけてみる。
乃空なら、答えを出してくれるような気がしたから。
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