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第111話
車内は休日の為かそんなに混雑していない。
空いてる席にでも座ろうかなと周りを見渡して、一人の男がじっとこちらを見ていることに気付き健人は目を止めた。
黒いブルゾンにダメージジーンズ。黒いブーツを履いてマスクをしている。
健人の心臓がどくんと脈打った。
見たことがある、では済まされない。
マスクで口元が覆われているが、あの少し下がり気味の目元があの日を思い起こさせる。
間違いない。──黒川だ。
言葉巧みに近付いて自分の体を薬でいいようにしようとした最悪な後輩。
今思い出しても膝が笑うほど、怖い。もう二度と顔も見たくないくらいに許せないと思っていた。
だけど何故だろう。
健人は黒川がそこまで憎めない。
それはいつか図書室で黒川が見せた寂しげな表情が忘れられないからだろうか。
そうだとしても自分を慰み者の対象として働いたあの暴挙は許されるものではない。
不安、恐れと共に疑問が浮かび上がる。
この電車に、いやこの車両に居合わせたのは偶然?
考えている間に黒川は立ち上がりこちらへと近付いてきた。
─隣の車両に移動しなきゃ……。
そう思っても視線は黒川へ吸い寄せられたまま、足がすくんで動かない。
─また何かされる?いや、まさかこんなところで?
まさかこんな人目の多いところで何か仕掛けてくるとは考えにくかった。
一先ず次の駅で一旦降りよう、そう考えた時、黒川に声を掛けられ反射的に健人の身体がびくんと揺れた。
「……お久しぶりです、先輩。少し話してもいいですか?逃げてもいいですけど」
入り口脇に寄り掛かっていた健人の前に黒川が立っている。
健人は乾いた口をゆっくり動かした。声が掠れる。
「ひ、久し振り。逃げなくても、お前は俺にここじゃ何もしないだろ」
「ええまぁ。でもわかんないです。もしかしたらキスくらいするかも」
「……っ」
反射的に手の甲で口元を覆った健人を見て黒川はくすりと笑った。
「嘘です。先輩、許してもらえないと思いますけど、この間のこと謝ります。すみませんでした」
突然の謝罪。
電車内であるにも拘わらず、黒川は健人に向けてがばっと頭を下げた。
何が起きたのかと周囲の乗客が一斉にこっちを見た。
「え、ちょっと、黒川っ、やめろよ。ここじゃ変に目立つし、俺がお前に何かしたみたいじゃないか」
「すみません。でも俺の気が済まないから。あんな姑息な手を使って先輩を抱こう……」
「うわーっ!わーっ!だめだめ!ちょっとお前次の駅で降りようか!?」
先輩と抱こうとしたとか言うつもりだったのだろうか。
公衆の面前で恐ろしく恥ずかしい発言をしようとするこいつを制止させなければと、健人が大きな声を立てる。
更に奥の方の乗客までもが一斉にこっちを見たのがわかった。
流石に視線が痛い。
「わかりました」
恥ずかしさでかぁっと健人の顔が赤くなる。
軽く睨みながら目を黒川に向けると、垂れ気味の目が細くなっていた。
多分マスクの下の黒川は微笑んでいるんじゃないかと思った。
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