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第131話

「帷さん」 すぐ傍から聞こえた声に僕は肩を震わせる。 何を言われるのか、言わせてしまうのか。 泣いているのを悟られたくない、何でもない風に装いたいのに、きっと情けない顔をしている僕は顔を上げることすらできない。 「…昨夜のこと、ですが」 言いづらいことを言わせている。僕は涙を必死にこらえて、彼の言葉を遮るべく声を出す。 「昨日はごめん。…びっくりしたよな」 「………」 「昨日、か…、新谷君が来て、あのさ、なんであの場所が?」 「…連絡があって、場所と、あと……その、写真とか……でもちゃんと消しましたから大丈夫です」 馨君の言葉に再び涙が溢れるも、気付かれないようにそっと拭う。 大事なのはここからだ。しっかりしろ、自分。 「新谷君ありがとう。昨日のことはさ、忘れてくれていいから」 努めて明るく、何でも無いことのように言う。 「昨日はちょっと悪ふざけが過ぎたっていうか、ただそれだけだから。もう二度とあんなことにはならないからできれば忘れてくれると嬉しい」 「……」 「ずるい言い方かもしれないけど、か…新谷君もある意味共犯だから、ね」 だから忘れてとなかば強引に話を切る。そんな脅すようなことを言ってしまって、最低だと思われるだろう。でも、これでいい。あの二人から、僕から離れることが馨君のため、僕が最後にできる大好きな人への罪滅ぼしなんだ。 「だから、だから…っ」 僕のことは忘れて、あなたは幸せな場所へ… ブランケットの向こうの馨君。彼が動きた気配がした。このまま、行って。 僕を軽蔑して、そのまま何も知らなかった頃の君に戻って欲しい。 だけど、そうはならなかった。 「っ…」 ベッドが軋んだ感覚で、彼が隣に座ったことが分かる。 そして、僕は聞こえてきた言葉に耳を疑った。 「帷さん、昨夜のこと…俺はどうしても忘れることができません」 ぞくりとした。新谷君は何を言っている? ブランケット越しでは彼がどんな表情をしているのか分からない。怖い。 思わず馨君の方を伺うと、彼とばっちりと目が合ってしまった。 「ぁ…」 その表情がとても真剣なもので、僕は縫い付けられたように動けなくなる。 その間に、馨君の手が伸びて、僕の被っていたものをゆっくりと取り去る。 僕が泣いていたことに気付いたのか、一瞬痛ましいものを見るような顔をした馨君は、そのまま僕の身体をそっと抱き寄せた。 「馨、君…」 「…俺はあなたに自分の気持ちを伝え、あなたはその気持ちに答えてくれました」 「そ、れは…」 答えた? いや、そんなことはない。 「それは、ちが…」 「帷さん。あなたは、昨夜確かにこう言いました。俺のことが好きだと」 「…言った、けど、僕はその…」 「付き合うつもりはない?」 「……うん」 こんな状況でなければ、あの二人と再会する前だったら僕たちはどうなっていたのだろう。 でも、そうなってしまったものは仕方がない。 「それは、あの二人の飼育下にあるからですか?」 「そうだね。あの二人は僕の飼い主なんだ」 その言葉は、自分が思っているよりすんなり口から出た。 「だから、ごめん…僕は…」 「帷さん」 馨君は被せるように僕の名前を呼んだ。 「帷さん、いえ、玲。あなたは自分から望んであの二人の元にいるんですか? それとも、もしあの二人があなたを開放すると言ったら俺と付き合ってくれましたか?」 その言葉に、僕は真摯に向き合うべきだと思った。嘘偽りなく、自分の気持ちを伝えようとそう思った。 「…正直なところ、よく分からないんだ」 「分からない?」 「うん。昔僕はあの二人の元にいた。それは自分から望んだことで、その時はそれでいいと思ってて…でも、僕は一度あの二人の元を離れた」 「離れた…、何かあったんですか」 「……それが、よく分からないんだ。自分のことなのにね。二人がいない生活になかなか馴染めなかったけど、このままやっていけるってそんな風にも思ってたんだ」 馨君は黙って話を聞いてくれている。 「でも、昨夜久しぶりに二人と会って、その、あんなことになって、抵抗もしたけど、結局根本のところでは変わってなかったのかななんて」 自虐的に笑うけれど、馨君は優しいから真剣な顔をしたままだった。 「帷さんは、俺が知っている帷さんは強い人だと思います」 「え…?」 今の自分とはかけ離れた言葉を受けて僕は思わず聞き返してしまった。 「強い、僕が?」 「はい」 「そ、れは、だって、昨夜の見ただろう…」 会社の先輩としての僕だけだったら、もしかしたらそう言ってもらえる余地もあったかもしれないと思う。でも、馨君には知られてしまっている。痴態もはっきり見られているし、情けない姿はこれでもかというほど認識しているはずだ。 「いくら君が優しいからってそれは無いよ…」 「気休めとか慰めで言っているんじゃありません。確かにあなたは昨夜二人に飼育されている、彼らに支配されている面もありました。ですが、流されながらもあなたには意思がありました。…俺を、守ってくれようとしてましたよね」 「だって、それは当たり前…」 はっとした。それに微笑む馨君。 「快楽に支配されながらも、あなたは人形だったわけじゃない。…こんなことを言いたくはありませんが、あの二人があなたに夢中な気持ちも少し分かった気がします。あなたはあの二人に流されているわけではなくて、自ら流されている面もある、むしろあなたがそれをさせていると言ってもいい…と俺は見ていて思いました」 「そんな、こと…」 無いと言い切れない部分も確かにあった。 「あなたが自分で流されているのなら、流されない、そういった意思の持ち方も可能なんじゃないでしょうか。だから、一度は逃げ出すことができた」 「……でも、ダメだった」 「そうでしょうか」 「そうだよ。……逃げたのに、僕は自分から二人の元に行ってしまった。きっとどこかでまたあの生活を望んでいたんだ。馨君は僕が意思の強い人間だって言うけど、そんなことない。本当は一人じゃ何にもできない情けない人間なんだよ。君の事だって、巻き込んでしまって…」 居た堪れなくて目を伏せる。好きな(ひと)一人守ることのできない、それが僕だ。 「…じゃあ、二人ならどうです」 「え…?」 思いもよらない言葉に顔を上げる。 「馨君?」 「…昨夜は、本当に申し訳なかったと思います。あなたを助けられなかった」 「そんな、だって馨君は巻き込まれただけで…」 「でも、好きな(ひと)を護りたいってそう思うのが男心ってもんでしょう」 「……うん」 嬉しかった。僕と同じことを考えてくれたってことが。 「俺は、決めました。あなたが憂いなく俺との未来を考えられるように、あなたに協力します」 「協力…?」 「あの二人の元からあなたが逃げ出すのを、俺がサポートします。一度目はうまくいかなかったかもしれませんが、今度は俺が助けます」 「馨君…」 「玲、俺に君を守らせて欲しい」 力強い言葉に、僕はくらくらする。さっきまでは真っ暗だった世界に急に光が差したようだった。

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