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第35話
”各務製薬”という、いち企業の経営者一族なら
結婚して子供を作り、
お兄さんと共にグループを盛り立てて行かなければ
いけない。
俺みたいな一般庶民のしかも男に現を抜かしている
場合ではない、というのがお兄さんの考えだろう。
アパートに帰り、シャワーを浴びて
布団に潜り込んでも
頭の中を”結婚”の文字がぐるぐる回って
寝付けない。
ザワザワと胸の奥がざわつく。
―― 気持ちが悪い。
結婚という文字が浮かんだだけで
胸が締め付けられるように痛い。
不意にパーティーでのいち場面が
脳裏にくっきり蘇った。
あの子が柊二の結婚相手。
神宮寺氏と一緒だったという事は、
恐らく彼女が氏の溺愛して止まない孫娘
なのだろう。
神宮寺のご令嬢と各務家の三男の結婚……
成立すれば世紀のビックカップルの誕生だ。
おめでたい事、なのに……素直に喜べない。
胸の奥で疼き、渦巻くこの感情は……嫉妬?
柊二と出逢うまでの俺は、自他共認める
八方美人。
特に自分の好みなど関係なく、
好きだと言われれば付き合ったし、
体を求められれば肌を重ねた。
自分は淡白だってずっと思っていたから、
胸が締め付けられる程の痛みで、
たった1人の男(ひと)を強く恋い焦がれる日が
くるなんて、考えもしなかった。
各務柊二という男が俺の全てを変え、
唯一無二の存在になった。
けど、今夜、お兄さんによってお互いの身分差と
現実の厳しさを突き付けられ、
やっぱり夢は夢でしかないんだと、思い知らされた。
溢れる涙が止められず、頬を濡らす ――
あぁ、ったく、ホントに情けない!
いい大人がみっともないくらい、子供みたいに
泣きじゃくった。
もう、途中からは何に対して、こんなにも辛く
悲しいのか?
それすら分からないまま、ただひたすら泣いた。
ブブブブ ―― ゴト ゴト ゴト ――
スマホの着信を知らせるヴァイブレーションで
起こされた。
もうっ、泣き疲れて寝ちゃうなんて、マジ子供かよ。
まだ、寝ぼけ眼のまま、まくら元を探って手にとった
スマホを、ついうっかりいつもの癖ですぐ応答に出て
しまった。
『もしもし、倫っ!』
発信者は柊二で。
彼の声は心なしか怒気を含んでいるように聞こえた。
「あ、しゅ ――」
『あ、じゃねぇよっ!
いきなり姿暗ましたら心配するだろ』
えっ、じゃあ、柊二、俺があそこにいた事……。
でも、俺は姿を暗ましたんではなく、
アパートに帰っただけなんだけど?
*** ***
『あ、えっ、と、ごめん、なさい……』
言葉尻にグスンと鼻を啜る音がして、
こいつは今まで泣いてたんだ、と思った。
1人ぼっちで泣かせちまった自分に
心底腹が立った。
諸悪の根元は……次兄・匡煌。
「まだ……仕事残ってるん?」
枕と耳でスマホをはさみ、
柊二の声が良く聞こえるように横向きになった。
『かなりな……』
柊二が笑う。その声が好きだ
「適当に切り上げて、早う帰らんとあかんよ。
医者の不養生はホント洒落にならんでしょ」
『あぁ、そうやな』
耳元で聞こえる優しい声が
子守唄みたいに俺の睡魔を誘う。
「お休みの前に……こえ、聞けて……」
『……倫?』
「……なぁに……?」
だんだん意識が遠くなる、すごく眠い……
『眠いのか?』
心地の良い声……
「……しゅじの声で、眠く……なった……」
柊二が笑った。
『子守唄でも歌ってやろうか?』
「も、……聞いてる……」
『りんたろ?』
俺は柊二の声を耳に当てながら瞼を閉じた。
でも、何か話さなきゃ……何を……
「おやすみ……」
落ちていく意識の中で、
柊二に何とか言い切って、そのまま寝てしまった。
『おやすみ』と俺に言って、
倫太朗は眠ってしまった。
受話器からは倫太朗の規則正しい寝息が
聞こえている。
このままずっと聞いていたかったが……
渋々通話を切り『執務室』に戻った。
いくら片付けても・片付けても ――
キリがない残業もたまには良い事がある。
倫太朗に言われた通り、今日はそろそろ帰ろう。
飯も食わなきゃな……
倫太朗の声で、肩の荷が軽くなった気がする。
俺は笑いながら病院を後にした。
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