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第2話 毒に犯されて
ちょっと怖いけれども、一人暮らしの俺は節約をしていてタクシーなんて安全なものに乗ることはしない。
徒歩だ徒歩。
暗くなった夜道、俺は出来るだけ人気のある道や、明るめの道を選らんで家路を急ぐ。
周りをキョロキョロと見回しながら警戒しながら歩く。
そのうち警戒しなくてもよくなる日は来るのだろうか。
周りの人々は俺が遭遇したような怪物を知らないから、ああいう風に呑気に歩いてられるんだ。
俺も知りたくて知ったわけじゃないのに、どうしてこんなに怖がってるんだろう。
今では幽霊とか出てくるより怖い。
なんとか家の近くまで帰ってくると俺の警戒は解かれる。
そして俺はなんとか今日は出くわさなかったとほっと胸を撫で下ろして玄関をくぐるのだ。
玄関をくぐって家に入って、ちゃんと鍵さえして閉めてしまえば、もう怖がらなくていい。
俺は靴を脱ぐ前に鍵をしっかりかけて、ちゃんとかかっているかドアをガチャガチャとさせる。
そしてちゃんとかかっていると確認出来てやっと、靴を脱ぐ。
【毒に犯されて】
壁伝いに電気のスイッチを探して電気を点ける。
パッと明るくなった家の中。疲れた身体をベッドに投げるためにリビングに鞄を投げ捨てて寝室に向かう。
「はぁー。」
大きなため息をついて寝室のドアを開けながら、シャツのボタンを外し始める。
寝室のクローゼットにかかってあるハンガーを一つ取り出して、シャツをかける。
それをまたクローゼットに戻す。
そんな手慣れた作業途中だった。
「いつまで気付かないフリしてるんだ」
「へ…?」
突然背後から聞こえた見知らぬ声に、振り向く。
この家には俺しかいないはずなのに。
でも、そんなことお構いなしにというより、気付かずに振り向いてしまった俺は…
「……ぁ…」
また再会してしまったのだ。
あの赤い目に。
「やっと見つけた。あんたいい匂いしてるから匂いを辿ってきたんだ。」
壁に寄りかかったその赤い目の持ち主の声が部屋に響く。
俺の心臓は今にも破裂しそうなくらい鼓動する。
「さっきからいたんだけど、気付かなかったか。それより、俺のこと覚えてるか?」
声など出ない。その代わり全身から冷や汗が吹き出る。
手足が、身体が震える。
その赤い目は壁から離れ、俺の方へ歩み寄ってくる。
また足は動かない。
俺はとてつもなくビビリだった。
歩み寄ってくる彼の容姿は異様なほど綺麗だった。
肌は透明なくらい白くて、そこに映える赤い瞳、薄い唇に、筋の通った鼻、今日は黒い服だ。
こんな状況で見惚れている場合ではないが、本当にこの世の者ではない様子だ。
俺は相変わらず後ずさることも出来ないまま、その赤い瞳が近付いてくるのをただ立ち竦んで見ているのだった。
「まぁ、人間はショックな出来事は忘れると言うし、仕方ないか。」
目の前まで来た赤い瞳の怪物は俺の匂いを嗅ぐように、俺の首元に顔を近づける。
噛まれる、噛まれる。
いつ噛まれてもおかしくないこの状況に、俺の呼吸はついていかない。
過呼吸気味になり、頭がくらくらする。
苦しい、息が、酸素が足りない。本当は足りてるんだから過呼吸なんだが、足りないような感覚に襲われて必要以上に息を吸う。
赤い瞳の存在はもうどうでもよかった。苦しさに恐怖は掻き消されて、ついに俺は意識を失ってしまった。
これが夢であることは可能性として決して低いわけではなかった。
というのも俺はここ最近毎日こんな悪夢にうなされて起きるからだ。
目を開けるのは怖かったが、俺は自分がベッドに寝ていることに気付き、ゆっくり瞼を開けた。
少しホッとして、大きく息を吸って天井を仰ぐ。
なんだ、いつもと変わらない。
電気だって消えているし、ベッドでちゃんと寝てるし、そもそも生きてるし、夢だったんだと思う。
時間を確認しようとゆっくり身体を起こす俺。
本当いつも通りだ。
と思った矢先だった。
さっきまでの悪夢は現実だったことを思い知らされることになった。
「やっと起きた」
まったく、この怪物は俺をどれだけ苦しめるつもりなんだ。
苦しめて、苦しめて、最後は俺の血を全て飲み干そうっていうのか。
なぜか今俺は物凄く冷静なことに自分でも驚いている。
恐怖を越えると何かを悟るのかもしれない。
「あんたさっき倒れただろう。まぁ仕方ない。」
仕方ない、って。
それなら俺がそうならないようにここから消えて欲しいものだ。
「まぁ、安心しろ。別に殺しに来たわけじゃない。」
「っは……、殺しに来たわけじゃない?ははははは」
やけに冷静な俺はまたしても笑いが込み上げてきた。
だって、言ってること可笑しいんだよ。
「何を笑ってる。」
「ははは、じゃ、何しに来たって言うんだよ、ははは、お前吸血鬼なんだろ?」
「やっぱり覚えてたんだ。」
そりゃあの夜のことはショック過ぎて、忘れたくても忘れられないもんだよ。
それから、吸血鬼が俺の家に何の用だよ。血を吸って殺さないなら、何しにきたって言うんだ。
電気を消したこの部屋で俺と暗くて今は見えない赤い瞳の会話が飛び交う。
そしてそいつがどこらへんにいるかくらいは分かる。
「忘れられるわけないだろ。」
「はは、そうだな。」
再び足音が聞こえる。こっちに近付いてきてるんだ。
「近寄るな。」
そう言うと、その足音は止まった。
自分でも驚くほど低い声が出た。
そして、思ったより声は震えていなかった。
このまま出て行けと言えば従ってくれるのだろうか。
「出て行けよ。俺をこれ以上苦しめるな。」
率直に言ってみたが、多分これが一番効くと思う。
その足音は止まったままで、出て行ったのかかと錯覚させるほど静かだ。
このまま窓ガラスを割ってでもいいから出て行って欲しい。
そしてもう二度と、夢にも出てきて欲しくない。
が、しかし、返ってきた答えは期待を裏切るものだった。
「嫌だな、せっかく見つけたのに。」
さらにその声は足音もなく近付いていた。真横で声がしたと思うと、すぐそばに赤い目はいた。
ベッドに座り、俺の数センチ横で、俺と視線を絡ませる。
こうされると俺はまた外せなくなる。赤い目に囚われた俺は瞬きさえも忘れる。
恐怖を思い出したように、俺の身体は固まる。
その赤い目がじわじわと近付いてきて、その口が俺の首元へと降りていく。
そして今度こそ噛まれる、そう思ったのだが。
「んっ………」
その口は俺の口にしっとり張り付くように宛てられる。
キス……みたい。
さらに恐怖で固まる俺の頭を片手で押さえてその唇を押し付ける。
いつ噛まれるのかひやひやしているのにも関わらず、その赤い目は俺の唇を噛むでもなくその舌で舐める。
キスみたいじゃなくて…キスしてるのか?
時々チュっという水音を立てて吸われる。
背筋がぞくりとする、恐怖とは別で。
固まるまま抵抗しないのをいい事に、赤い目は楽しそうに俺の唇を頬張る。
今度は本気で酸素不足になりそうだが、口を開けるなんて自殺行為は避けたい。
早く離れてくれ。
しかし、その赤い目は明らか俺を遊んでいる。
いとも簡単に固まる俺をベッドに押し倒すと、俺が不意に息を吸った隙間を狙ってまた唇で塞ぐ。
酸素は取り込めたが、それどころではない。
なぜなら今ディープキスってもんを無理矢理されているのだから。
「ンッ…ふぁ…、」
酸素を取り込んだのに頭は真っ白だ。何も考えられない。
角度を変えて、変えて、逃げる俺の舌に無理矢理絡ませようと追いかけ回される。
熱い吐息と、わずかに色付いた声が零れていく。
「はぁ…っ、…ゃ、…んッ…」
もう何がどうなっているのか分からない。
赤い目は俺の血が欲しいのか、それとも弄んで面白がっているのか…。
何のためにこんなこと…
男の俺なんかにキスを…
「はぁ…はぁ……」
やっと離れた赤い目の顔。
まったく野獣のような目。
背筋が凍りつきそうだが、身体は尋常じゃないくらい熱い。
身体に力が入らず、今だ上に乗っている赤い目を突き飛ばすなんて出来ない。
だからただ下から睨むことしか出来ない。
「ふんっ、煽ってるのか?」
「はぁ…はぁ…どけよっ…」
睨みつけても怖くないようだ。
楽しそうに笑っている赤い目は今にも俺を喰ってしまいそうだ。
どうして俺をそんなに怖がらせて、苦しめて、悩ませて。
そんな血の方が美味しいって言うのなら、あの夜、あの男にだってもっと恐怖や苦痛を与えてから喰えばよかったじゃないか。
あの時はすぐに噛んで、ほんの数秒の苦痛を与えるだけで終わりだったじゃないか。
なんで、…
なんで俺をこんなに追い詰めて…
「殺すなら…早く殺せばいい。…早く、噛んでどっか行けよ…!」
込み上げたものが噴き上げたように赤い目の下から吠える。
命が惜しいとか、目の前の存在が怖い、助けて、…そんな恐怖を越えて、とうとう苦痛が勝ってしまったのだろう。
訳のわからない身体の熱さもどうしようもない。
とりあえず早く消えればいいのに。悪夢以上に悪夢な今が。
「はは、そんなに怖がるな。それに、殺さないし、もう噛んだ」
「え…?」
一気に怒りの熱は引いて、俺は自分の慌てように恥ずかしくなった。
「何?あんたさ、俺が血を飲む度に人を殺してるとでも思ってるのか?」
「え……だって…、…違うの?」
「はは、ホント面白いな。そんなことしてたら毎日ニュースで世の中が慌てふためくんじゃないのか?」
言われてみればそうだ。ってか、実際俺もこうして吸血鬼が本当に存在することを知ったのは三日前。
毎日路上で人が死んでるのなら、世間では吸血鬼がやったとか、吸血鬼はいるのか、とかそんな話題で持ちきりになるはずだ。
「そ、そうだな…。」
「それより、人のこと怖がる前に自分のこと怖がったらどうだ。まぁ口の中をちょっと切って飲んだ俺が悪いんだが、…口の周り血だらけだ。」
「え"ッ…」
俺はやっとその赤い目を退かせて、鏡を見ようとベッドから降りようとしたのだが。
「ふ…ぁッ…!?」
上手く力が入らず膝から崩れた。
床にどっさりと怠い身体が引っ付く。
そして直ぐに得体の知れない熱のせいだと分かった。
「力が……はいんない…」
「あんた俺の毒よく効くみたいだな。」
「ど、毒…?」
再びベッドに戻して貰った俺。口の周りをちょっとずつ舐めてティッシュで拭いて少しずつ綺麗にする。
って言うのも、吸血鬼が俺の口の周りを舐めて綺麗にしようとしたから阻止したんだ。
俺の熱は今だ残ったままだ。
「で、毒って何なんだよ……」
中々俺の部屋から出て行こうとしない吸血鬼を追い払うことも出来ずに俺は質問する。
「吸血鬼は人を噛む時痛みを和らげるために毒を出す。その毒が効けば噛まれた時に噛まれたとも分からないし、逆に効かない奴なら痛みを感じる。」
「蚊…みたいだな」
「あぁ、痒くなるわけじゃないけど。理屈は一緒。だけど、痒くなるより厄介だろうな。」
「な…何でっ…?」
「身体が熱いんだろ?それのことだ。」
確かに感じるこの熱。
さっきからまったく引こうとしないし、寧ろ酷くなる一方だ。
「ね、熱…何度くらい…」
「は?」
「だから、っ……たいおんけいで計ったら……」
「ははは、馬鹿か?」
「何が…だよっ…」
笑いながらまた覆いかぶさってくる吸血鬼に警戒する。
電気を点けた今、こうして明るみでこいつを見ると死んでるように白い。ってか血色がないんだ。
血ばっか飲んでるくせに。
吸血鬼の手が俺の頬に触れようとする。
しかし、その手は俺の首元へ降りて、そっと触れる。
「ひぁっ…!」
首に触れた手は冷たくて、でも、そんなことじゃなくて、触れられて変な声が出てしまった。
でも、その触れられている場所がじんじんと熱くなる。
変な熱。
「風邪の熱じゃない。どちらかと言うと…媚薬を飲んだみたいだろ?」
「…はぁ………」
媚薬というものの存在は知っている。飲んだことも飲ませたこともないけれど、明らか俺の身体は可笑しかった。
正直今気付いたが、身体に熱が溜まって、出したい気分。
そう、慰めたいってやつ…
でも、こいつが居たら抜くにも抜けない。
「お前…好い加減…」
「出て行けって言いたいんだろ?くくっ、分かりやすい奴だな。抜きたいとか思っているんだろ。」
「ぅ…煩い!お前がっ…!」
「俺の毒のせいだって言いたいんだろ?」
「……そ、そうだよっ…!」
「そうか。……俺がやってやろうか?」
「…は、ハァ!?」
俺の上にまた跨ってくる吸血鬼はまたその瞳を爛々とさせて迫り来る。
溜まっていく熱に苦しむ俺を面白がって弄ぶ。
首筋から鎖骨、頬を指でなぞると同時に俺は声を漏らす。
冷たいその指が火照る俺の身体を滑って行くが、俺はそれを払いのける余裕がない。
正直…何でもいいから、この熱をどうにかして欲しい…
だが、そんなことを思ってしまった矢先、その手は離れてしまった。
今俺はどんな顔をしてるんだろう。
多分みっともない顔をしてるんだろうけど。
その吸血鬼は俺から降りると、ベッドからも降りて窓の方へ向かう。
「くくっ、じゃ俺は出ていくよ。また来る。」
窓を開けると、ベランダに出る前にそう悪戯そうな顔をして出て行く。
赤い瞳は満足しているようにも見えた。
「二度と…、来るなッ…」
俺の声は多分届いていないだろう。
ここはマンションの6階。
しかし、そんなのもお構いなしに、吸血鬼はベランダから飛び立った。
ホッとした。でも、熱は冷めなかった。
to be continued.
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