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「式」
名前を呼ばれて式は我に返った。
慌てて涙を拭い、大股でやってきた隹から顔を背けた。
「どうした」
「別に、何も」
「泣いてるだろ」
古めかしい図書館の片隅で片腕を掴まれ、ぎこちなく隹の方へ視線を戻す。
「何がつらいんだ」
前髪の先がかかる鋭い双眸に真っ直ぐ見つめられて式は自身を偽れなくなった。
全てを見透かすように不敵な。
まるで今にも自分の心を写し出す鏡の破片の如き眼に向かって強張る唇を開いた。
「……自由じゃなくなること……」
開いてしまえば喉の奥に閉じ込めてきた慟哭が込み上げてきた。
「そもそも今まで自由だったのかどうかもわからない。父さんも母さんも、もう、俺の家族じゃない。あの団体に自ら喜んで洗脳されてる」
式の言葉を聞いてくれなくなった二人。
高校生活の一件も団体に許しを乞い、長から許可が下りると、そちらの言葉に従うかたちで一人暮らしを了承した。
そうだ。
元はと言えばこの進学先も、家だって、彼らに手配されたもの。
やっぱり俺は……。
「……怖い、隹」
「何が怖い」
式の片腕を掴んだままでいる隹の掌にさらに力が込もった。
痛みとはまた別の感覚に肌身を支配されて式の胸は波打つ。
「式、言えよ」
熱い。
隹の触れてるところが、隹の声を拾う耳が。
指先から壊れていきそうな。
「何も知らない誰かのものになるなんて……嫌だ……怖い……」
今にも消え入りそうな式の声が冷ややかな静寂に溶けていった。
隹は切れ長な双眸を涙でいっぱいにした彼をずっと見つめていた。
嫌悪感、恐怖に顔を歪めるでもなく、ただ自分を見つめ返す儚げなクラスメートに視線を奪われていた。
「じゃあ俺のものにしてやる」
片腕に抱かれていた絵本が床に落ちた。
絶望に翳りゆく式を両腕で抱き寄せて、隹は、寸でのところで慟哭を押し殺していた唇を不敵な唇で塞いだ。
式は目を見開かせた。
閉ざされた隹の瞼で視界が埋まる。
押しつけられた微熱に心臓が跳ねた。
隹、に、キス、され、て。
「ッ……や、やめ……」
触れ合っていた唇を式が解けば。
隹は式の両手首を背後の本棚に力任せに縫いつけた。
「こういう気分なのかもな」
揺らぐ双眸を間近に覗き込んで愉しげに笑う。
「蝶を標本にするとき」
「え……?」
「翅に針を突き刺すとき」
「隹」
間近に目にしたクラスメートの鋭い微笑に式は甘い戦慄を覚えた。
再び重なった唇。
古めかしい電燈が紡ぐ薄明かりの元、奥まった本棚の狭間で。
放課後、他の生徒が読書や勉強に励む傍ら。
傲慢な微熱に式は喉を詰まらせる。
上下の唇を抉じ開けられ、隹の舌先が訪れると、首筋が勝手にゾクリと震えた。
「ん……」
自分の舌先を絡め取られた。
くすぐられて、縺れて、頻りに擦り寄られる。
皮膚の内側に溜まっていた熱がさらに増していった。
頭の芯が溶けるような発情に貫かれる。
初めてなのに。
初めてじゃないような。
どこか懐かしくさえ思える温もり。
隹と重なった唇が心臓みたいに鼓動している。
「ん、ン、っ」
唇の際に溢れたかと思えば下顎へ滴った、そんな、淡く濡れた感触にさえ敏感になる。
息継ぎも忘れて甘い戦慄の虜と化した。
キス一つで全身が隈なく疼いて、式は、きつく閉ざしていた瞼をぎこちなく持ち上げた。
薄目がちでいた隹と目が合う。
舌先だけでなく、視線まで絡み合った瞬間、理性が麻痺した。
「ンン……ッ」
隹は幾度となく角度を変えて式に口づける。
切れ長な双眸が紡ぐ危うげな火照りを孕んだ眼差しに釘づけになりながら。
静寂に鳴らされる水音の一つ一つに式の睫毛は痙攣し、律儀に反応していた。
先程とは違う涙で濡れそぼった目がひどく興奮を煽る。
腹の底が燃え立って、滾って、手加減できなくなる。
「ッッッ」
下唇に歯を立てれば式は喉奥に悲鳴を滲ませた。
切なげに捩れた表情に隹は見惚れるばかりだ。
唇同士の深い交わりにひたすら夢中になる。
世界が溶けていくみたいだ、そう、式は思った。
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