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第4話
解放してもらうために、結局マンションまでケイを連れていくしかなかった。ハルキがベッドから動こうとしないのを見ると、これ見よがしに携帯を取り出すのだ。
細い路地を抜けた先には、薄いブルーに彩られた外壁の、小奇麗なマンションが建っていた。広くとられたエントランスの横には駐輪場が設けられ、自転車が整然と並べられている。確かにここにたどり着くには、ビルが立ち並ぶ通りを大きく迂回しなければならないが、近いからといってあの暗い路地裏を通る住人はいないように思えた。およそハルキには似つかわしくない上品な佇まいだ。
ハルキはマンションの入り口で散々粘ったが、どこからか部屋のドアが閉まる音を聞いて、こんなところを見られては困ると、しぶしぶケイを連れたまま、階段をのぼっていった。
部屋の前まで来て、ハルキはケイの手を振り払った。すんなり手が離される。
「もういいだろ」
鍵をがちゃがちゃと乱暴に開けて、ケイを押しやって部屋に入ろうとした。歩いている間中ずっと黙っていたケイが口を開く。
「貸したシャツを返してください」
ハルキは舌打ちし、「わかったよ」と言いながら部屋に入った。
まだ洗濯も何もしてないのだけれど、勝手に渡してきたのだからどうでもいいかと思い、ソファに放り投げていたシャツを掴む。
振り返ると、リビングのドアの前にケイがいた。
「おい。何勝手に入って来てんだよ」
部屋をぐるりと見回しながら、ずかずかとハルキの側に歩いてくる。
一人で住むには広すぎるリビングダイニングは、物が少なすぎて、より一層広く見える。カウンターキッチンの前にはスツールが2脚置いてある。ソファの近くには、コンビニの弁当の包みやら、ペットボトルやらが散乱していた。それ以外は綺麗なものだ。
「出てけよ」
闇のように暗い瞳に見つめられ、ハルキは思わず目をそらす。ケイの視線を感じながら、持っていたシャツを押し付けると、少し声を荒げた。
「出てけっつってんだろ!」
しばらく沈黙が落ちる。ハルキはなんだかそわそわして、ケイにぐいぐいとシャツを押し付けて、ドアの方へ突き飛ばした。
しかしよろめきすらしない。ケイは押し出されたその腕を掴みながら、まだハルキを見つめている。吸い込まれそうなほど暗い真っ黒な瞳。何故か怖いと感じる自分に舌打ちした。
「何故あんなことをしているんですか?」
ケイの言葉にハルキは引きつった顔で吐き捨てるように言う。
「気持ちいいからに決まってるだろ」
「一歩間違えれば死んでしまいます」
ずいと体を寄せてきたケイに、ハルキはじりと後ろに下がって距離を取った。
「別にいいんだよ。気持ちいいまま死ねるなんて最高じゃねえか」
笑顔が歪む。どこか自暴自棄なハルキを見やり、ケイはさらに言葉をつなげた。
「死にたいのですか?」
「ああ、死にたいね」
ハルキは軽く突き飛ばされ、よろめいて床に倒れこみ、ソファで頭を打った。ケイがハルキの体に馬乗りになる。
「わたしが殺してあげます。一度人を殺してみたかった」
ケイが、ふっと笑った。能面のような顔に狂気が満ちる。暗い瞳の奥がギラリと光った。
ハルキは首を絞めていた男に、躊躇なくビールケースを振り上げていたケイを思い出す。背中がかすかに粟だった。
いいじゃねえか。
こいつ本当に俺を殺す気だ。
口を歪ませて目を閉じる。
冷たく細い長い指が首にかかる。ひたりと吸いつくように絡みつき、じわじわと力が強くなっていった。
期待に打ち震える体に、鳥肌が立つ。ケイの無表情な顔を見て、頬を上気させた。
興奮する。体が熱くなる。
もっと強く、とケイの腕を掴む。
空気を求めてあえぐが、酸素はもう喉を通らない。ずきずきと頭が痛い。血管がはち切れそうだ。くらりと視界が揺れた。
目の前が真っ白になって行く。ハルキは無意識のうちに足をバタバタと暴れさせ、ケイの手首を掴んで満身の力込めて首から離そうとした。口が意に反してぱくぱくと喘ぎ、必死に膝でケイの体を蹴ろうとする。セックスをせずにただ首を絞められるというのは、こんなにも苦しいのか。のたうち回り、ケイの頬を引っ掻いて腕に爪を立てる。
ふいにふっと首にかけられた指の力が抜けた。薄く目をあけると、ケイの冷笑が視界に入った。
「往生際が悪いですね。死にたいなんて嘘じゃないですか」
盛大にむせながら、必死に反論しようとするが、声が出ない。切れた口の端が動くたびに痛む。頭に咳をする自分の音が響いた。
「ああ、でも、気持ちよくはなっているんですね」
ケイが鼻で笑う。熱を持った股間をわしづかまれ、ハルキは低く呻いた。
頬を上気させ嘲笑を浮かべるケイにぞくりとする。
「どうやら死にたくはなさそうなので、死ぬ覚悟ができるまで待っていてあげますよ」
「死にたいって言ってんだろ! 今やれよ!」
かすれた声で弱々しく叫ぶと、もう一度ふん、と鼻で笑い、ケイはゆるりと立ち上がった。
「あんなに無様に死に抗ったくせに、何を今更」
目の前が真っ赤になった。勢いよく体を起こそうとして、ケイに股間を踏みつけられる。ぐっと悲鳴がもれて、体をよじった。
「あなたは私が殺します。他の誰かにうっかり殺されないように気をつけてくださいね」
ぐいとハルキを踏みつけた足をにじる。うめき声をあげたハルキが体を起こし、ケイの足をつかもうとすると、蹴り飛ばされた。ハルキは体を丸くして唸る。
「あんたにそんな事言われる筋合いねえよ!」
恨めしげに横目でケイを見あげると、彼は心底馬鹿にしたように笑い声をあげた。
「あんなに暴れられたら、怖くなって逃げ出す人の方が多いと思いますよ」
違うんだ、と。いつもはもっと恍惚として、死ぬかどうかなんてどうでもいいと思ってるんだと。言いたかったが、実際にのたうち回っている姿を見られているのだから、何も言えない。
「あなたが今までそれ程酷い目にあっていないのは、たまたま運が良かっただけですよ」
真顔に戻り、冷たく言葉を吐きだす。
「あなたを傷つける人が、皆あなたに優しいだなんていう保証がどこにあるんですか? 拷問されて、死にたくても死なせてもらえずに、今の何倍もの苦痛を味わう様な目に、遭わないとも限りません」
ハルキはぞっとして、ぶるりと震えた。ごくりと唾を飲み下す。
「私ならそんな真似はしませんよ。まあ、信じていただかなくても結構ですが」
ハルキは頭がぐらぐらとした。何故こんな事を言われなければならないのかわからない。反論の言葉が見つからないまま、ケイの黒い瞳を見つめた。あの狂気はもう鳴りを潜めていた。
「また来ます」
動けないハルキからふいと目をそらすと、放り出していたシャツを掴み、部屋から出て行ってしまった。
呆然としたままのハルキは、ケイの言葉を反芻した。
……また来るのか?
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