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第8話

 真司は雨に打たれながら、見知らぬ街を彷徨い歩いていた。 小さいころからの小遣いやお年玉を少しずつ貯めた全財産、荷物はそれだけ。 どうしてここ、「東京」に来ようと思ったのかは未だにわからない。若者によくある、東京に出れば何とかなる、という考えとも違う気がする。  ともかく、真司は今、東京にいる。  雨は降っているが、傘はない。あったところで、松葉杖で歩く身に傘がさせるのかどうか。 「あっ」 おしゃれでつるつるした床面は、雨ということもあって滑りやすくなっていた。 案の定、真司は雨でずぶ濡れの床面に豪快に打ちつけられた。しかし、雑踏には振り返る者すらない。  真司は悲しくて、寂しくて、すぐに起き上がることができなかった。 どうして咄嗟に家を出たのだろう。  ただ、樹にはもう顔を合わせられない――そう思ったら、家出していた。 だけど、ここにはこんなに人がいるのに、助けてくれる人なんていないんだ。 「大丈夫?立てる?」  不意に差し伸べられたのは、見とれてしまうほどの美しい手。 絶望の只中にいた真司には、まさしく神の手にも思えたろう。  見上げると、その手に相応しい――否、その手よりも数倍高貴な、決して華やかではないが芯の通った美しい顔立ちが、 たおやかな笑みを湛えて真司を見つめていた。 「可哀相に…こんなに濡れて」 真司をかばうように傘を移動させる。そのせいで少し髪や服が濡れ、雫が美しい輝きを放った。  真司はその人に手を引かれ、彼のマンションに案内された。そして服を借り、熱い紅茶をご馳走になった。 一息ついて真司は、やっと今自分が置かれている状況について考えることができるようになった。  まず、目の前にいる美しい人に改めて見惚れた。年齢は勿論、性別も定かではないその容貌。 その人が急に真司のほうに向き直った。 「どう?落ち着いた?」 「はいっ」 慌てて返事しながら、なおも真司はその人の観察を続けた。不躾にならない程度に。  起伏のない胸元を見ると、どうやら男性のようだ。だが、それにしては線の細い、華奢な男だった。 「君はこのへんの子?」 そう問われて我に返った。こんなに世話になっておきながら、まだ名を名乗るどころか、お礼の一つも言っていなかった。 「ご、ごめんなさい、遅くなりました!僕、S県から来た深海真司って言います」 「そう…僕もS県から上京したんだよ。静流っていいます」 そう言って微笑んだ静流と名乗る青年の笑顔は、見覚えのある誰かを思い出させた。 ――今、一番思い出したくない人物。 「S県のどこ?」 「N市です」 「偶然、僕もN市なんだ…僕にも君と同じぐらいの弟がいたよ。もう何年も会ってないけどね」 真司はさっきの一瞬の予感を確かめざるを得なくなった。 静流のさっきの笑顔。以前聞いた、兄が行方不明だという話。 「し、静流さん?名字はなんとおっしゃるんですか?弟さんのお名前は――」 「速水…速水樹、ですが?」  予感は見事的中した。なんと言う偶然、こんな人間が溢れかえる見知らぬ土地で、よりによって樹――今回の家出の最大原因――の兄に助けられるとは。 「そうですか…相変わらずなんですね、樹は…」 静流は安堵にも似たため息をついた。どことなく嬉しそうにも見える。  真司は学校での樹がどんなに人望厚く、友達思いのリーダー的存在であるかを報告した。勿論、客観的に見た樹の姿を。 「――ということは、君は高校生なのにどうしてこんなところに…?」 そんなことするつもりはなかったのだが、真司は触れられたくない話題に咄嗟に顔をそむけた。 「…ま、いいでしょう、人それぞれいろいろありますからね」 まったく悪意のない表情で、静流は前の質問を取り消した。 「すみません、お世話になっておいて…」 「困ってる人、放っておけないでしょう?」 静流は真司に近づき、真司の頬に触れた。真司は驚いたものの、心地よくて抵抗しなかった。 「…嫌がらないんだ」 少し意外そうに静流は真司をまじまじと見た。 「静流さん、僕…樹が好きだったんだ――」 うなだれる真司を、静流はそっと抱き寄せた。 「―それは辛かったでしょう。あの子はどうしてもわかってくれなくてね」 二人は固く抱き合っていた。 「静流さんどうしよう…まだ会って何時間も経ってないのに――こんなに静流さんのこと好きになっちゃった」 次第に二人の姿勢は低くなり、静流の上に真司が乗る形になった。静流もその配役に不満はないようで、初めて会って2時間半後、二人は交わった。  樹と晃司を足して2で割ったような顔つきで、おまけに同好者。この人こそが人生の伴侶だ、真司はそう思わずにはいられなかった。  コトが済んで感慨深く横たわっていた時、不意に真司が言った。 「静流さん、僕をここに囲って」 誰もがどんな頼みをも聞いてやろうと思ってしまいそうな、懇願の眼差し。静流はクスッと笑った。 「ずいぶん大胆なことを言うね」 余韻が残った熱っぽい表情で真司はさらに哀願した。 「静流さんのそばに置いてください、何でもしますから――」 「何でも?」 ついに真司の瞳から涙が溢れた。今までの辛さ、悲しみを搾り出すように。 「何でも!!静流さんに死ねって言われたら死ぬ――もう捨てられるのはイヤだ…」 そう言ってしがみついてくる真司を、静流は優しく撫でてやった。 「死ねなんて言わないし捨てやしないよ。かわいいね、真司…」  翌朝。 「そうと決まったからにはやらなきゃいけないことがあるね」 「?」 真司には何がなんだかさっぱりわからなかった。静流は着々と出かける用意をしている。 「君も僕も家族に黙って出てきてる。筋は通しましょうってことですよ」 鏡を見ながらネクタイを締めて、静流は言った。 「一度S県に帰りましょう」 真司はS県に帰るのは恐かったが、静流の提案はなんとなく嬉しかった。結婚するみたいだ、と内心少し照れた。  「真司?!どこ行ってたの…!」 母親が予想通りの言葉で迎える。そして我が子の傍らに立つ、およそこの場に不釣合いなほどの美青年に気づき、年甲斐もなく頬を赤らめた。 「そ、その方は?」 「初めまして、東京で画廊の手伝いをしております、速水静流と申します」 好感度アップ間違いナシのステキな笑顔で、静流は礼儀正しく簡潔に自己紹介をした。 「はあ…その、息子がお世話に…」 「今日は息子さんをいただきに参りました」 母、そして騒ぎを聞きつけてやってきた父と妹も、固まった。 「今までのこと、全部話すよ」  真司は家族にすべて話した。晃司が好きだったこと、晃司に捨てられて自殺を図ったこと、高校に入っても男を好きになって、挙げ句強く拒否されたこと。 「――で、今の相手がその人だって言うの?あんた間違ってるわよ」 母の静流に向けられた視線は、最早先刻までのそれとはまるで別のものだった。 「じゃーお兄ちゃんホモってこと?気持ち悪ぅい。友達にばれたら超カッコ悪いよ」 妹も冷ややかに真司を見ていた。 「考え直せ、真司。そんなものは一時の気の迷いだ」 父ははなからまともに取り合おうとはしない。 「わかってくれてもくれなくても、僕はこの人と暮らす。子供の幸せを少しでも考えてくれるのなら、黙って行かせてください」 きっぱりと言いきる真司に、家族は返す言葉がなかった。  「…本当に良かったの?」 もう来ることはないであろう自宅を後にして、静流は徐に真司に尋ねた。 「どうしてそんなこと訊くの…」 「――とても悲しそうだから」 声を殺してしきりにしゃくりあげている真司を横目で見ながら、静流は答えた。 「兄貴――?!なんでみっちと…」 樹にとっては何もかもが不可解だった。 「まったく…心を入れ替えて戻ってきたのかと思えば、お前と言う奴は…」 「しずちゃん、お願いだから目を覚ましてちょうだい」 樹が慌てて呼んできた両親が我先にと静流へ言葉を浴びせる。 そこへ樹の一言。 「不潔だ…兄貴もみっちもフケツだよ!」 各々の言葉に動じる様子もなく、静流はにこやかに話し出した。 「理解してもらうために戻ったんじゃありませんから。けじめをつけに来ただけです」 そんな兄の態度に余計腹が立ったのか、樹の怒りの矛先は真司に向けられた。 「みっち!見損なったよ、おれのこと好きとか言っといて…結局は兄貴に体売って囲ってもらってるんだろ?!お前がそんなに汚らわしいヤツだとは…」 「樹」 そこまで言ったとき、静流の声が樹の続く言葉を遮った。 「僕のことは何を言ったって構わない。けど、真司を侮辱しちゃいけないよ」 普段温和な分、凄みがあった。一言の反論も許されない雰囲気があった。 「…東京でもどこでもさっさと行っちゃえ!」 樹は自棄になって走り去った。  「疲れたね」 東京の静流のマンション。ネクタイを解きながら労いの言葉をかける。 「今日は…いろいろ辛かったね」 真司は固くなって俯いていた。 「でも今日からは穏やかで満たされた日々が始まるんだ」 真司の強張りを解きほぐすかのように、静流は後ろから壊れ物に触れるようにやさしく、真司を抱きしめた。 「静流さん…ありがとう」 やっと真司は顔を上げ、満足そうに微笑んで静流の頬に頬擦りした。 「真司がずっと幸せでいられるように…真司がいつも笑っていられるようにするよ。それが僕の幸せでもあるんだからね」 真司は生まれて初めて、心が満たされるとはどういうものかを知った気がした。 愛されている、そう実感した。家族、学校、友達、故郷――捨てる価値は十分にあったと。

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