8 / 17

未来への鍵

「あきれたヤツだな」  専務の見せる顔は僕が初めてみるもので、驚や不安に彩られた複雑な表情を少しおかしくなって見つめる。 「でも実際、一番理にかなった方法に思えたんですよ。ロクに帰らない家に家賃を払って、乗りもしない車を維持して駐車場代をかけていましたし。使っていなくたって公共料金や光熱費の基本料金はかかりますしね。家賃と食費として未祐ちゃんに渡したところで、僕は痛くもかゆくもなかったんです。食生活は格段によくなりましたし。 3年は譲れませんでした。千尋が幼稚園に行くようになったら実際の父親と書類上の父親も一致させなくてはなりませんから。もしそこまでに正登が基盤をつくれなかったら、そのまま僕が書類と現実を両方引き受けるつもりでした」 「だからって、結婚を偽装するなんて、まったく考えもつかないじゃないか。呆れてものも言えない。驚きすぎて怒るべきなのか悲しむべきなのか、どうしていいのかわからん!」 「偽装といってもあくまでも書類上だけです。実際のところは仲の良い親子3人の家に僕が間借りしていた状態ですからね。ちゃんと家庭はありますよ。とても暖かい家族です」  僕に抱きつく千尋を思う。ほんと、暖かい、あそこは。 「僕に初めて弟と妹と、姪ができた。とても嬉しい生活だったんです。僕は親がいませんし、祖父母も他界してます。ひとりぼっちじゃなくなったわけですから。それに正登は本当によく頑張りました」 「俺がにべもなく追い返した男か。正登というのは」  専務はため息を深くついて顔をゴシゴシこすりうつむく。逆の立場ならそうだろう、何をきかされても驚くしかない。 「毎日予約で満席になる店にしましたよ。おごらず欲張らずです。取材も受けず来てくれるお客様を本当に大事にしています。脇坂コーポレーションや坂社長のご家族もお気に入りですから」  専務は勢いよく顔をあげて僕を見返した 「いい店を君から紹介されて以来、家族で通っていると話していた、あれか」 「そう、そのあれです」  僕は微笑みかえす。正登の店は主だった取引先のお偉いさん達にも人気だ。ただし接待や打ち合わせではなく家族で行く店として。そういう暖かい場所を正登は作り上げたのだ。 「いちから店舗を立ち上げるとなると莫大なコストとノウハウがいります。評判や空間は金では買えませんし、そういうハコを一つ手札にあるというのも今後なにかと役に立つと思います。正登の能力は今後絶対使えます」  専務の顔が一気にビジネスじみたものに変わった。そう、それでこそ貴方だ。 「それに僕の離婚は、飛ばす理由になりますよね」 「飛ばす?」 「札幌のポジションがあきました。北海道・東北の統括事務所レベルでしかない札幌支社ですが、可能性は色々あります。北海道のブランド力は時に東京以上に力を発揮する」 「たとえば?」 「たとえば、アジア圏でしょうか」  専務がニヤリと腕を組む。 「あなたの懐刀であり「息子」である僕が理由もなく札幌にいけば、痛くもない腹も探られますし動きにくいだけです。離婚したとなれば僕達が距離をおくのはなんの不思議もないと思いませんか?ただの事務仕事でしかない支社への転勤です。娘とうまくいかなかった部下を遠くにやったところで人の噂になるだけで、我々に実害はありません。そして自由に動ける」 「たしかにな」  先ほどまで驚きに茫然としていた男はここにはいない。 「そろそろ専務のビジョンを形にしてもいい頃です」 「札幌……か」 「モデルケースを構築するには十分です。商圏も都市規模もある、なにより大阪から遠い」 「ふふ……遠いな」  めまぐるしく頭が回転する音がきこえてきそうだ。アドレナリンが体をめぐりはじめるのがわかる。この人と仕事をするといつもこうなるのだ。ワクワクする。 「あとは俺がやっておくから、しおらしくしてろ。おもしろくなりそうだな」  根回しもろもろ、お願いします専務。 「専務、ちゃんと正登と逢ってやってください、本当の息子になるのはあっちなんですから。あと未祐ちゃんを叱らないでください。彼女は本当に強くなってきれいになりました」 「仕方ないだろうな。加瀬のほうが間借り人だという現実が3年以上も続いていたなら」 「千尋には理解できる時期がきたら僕たち3人で話をすることに決めています。紙の上にあった僕の両親は実体がなかった。大切なのは現実なんだと千尋がすんなり思えるように僕たちは彼女に愛情をと思っています」  専務は煙草に火をつけていぶかしげに僕に視線を送る。 「しかしよく騙しとおしたな。まったく気が付きもしなかった」 「それは予想できました。うまくいった案件はトラブルでもおきない限り順調に推移すると考えがちです。それに顔をよく合わせている僕も、奥様も何も言わなければ専務が気付くはずがありません。一緒に暮らしていませんし。専務は忙しいですから僕たちの家にはほとんど来る暇がなかった。正登本人がいなければ、変だと思うはずがないのです」 「恵理子がよく許したな」 「差し出がましいですが、専務」 「なんだ」 「社長令嬢が平社員だった頃の専務と結婚したわけですから、好きな相手と一緒になることの意味を知っているのが奥様ですよ」  たぶん専務こそが『馬の骨』呼ばわりされたのだろう、当時。そして身内というしがらみとやっかみの中で評価されていく厳しさの何たるかを一番身をもって知っている。 自分の選んだ相手が苦しみつつも登っていく姿を見守ってきた奥様も望むことは一緒だ。 「事情を説明しました。3人の未来と、僕と専務の将来にかかわることですから」 「だからといって」 「僕は許しを請いませんでした。ただ」 「ただ?」 「奥様に「共犯者」になってくれませんか?とお願いしただけです」  専務はそれを聞いて大笑いをはじめた。こんなに楽しそうに笑う専務を初めて見た僕は驚く。 「みんな寄ってたかって俺を騙して!だがな加瀬」 「はい」 「お前に未祐をまかせてよかった。息子ではないのはいささか残念でもあるが、他人であるほうが今後やりやすいことのほうが多い」  こちらこそです、本当に。未祐ちゃん達がいたから僕はトモキと離れたあと何とかやってこれた。 「さて、祝杯をあげにいくか、加瀬」 「今からですか?」 「お前の間借りしているという娘の家にな。俺は恵理子に電話するから、未祐たちには加瀬がしてくれ」  さっそく携帯をとりだした専務をみて慌てて電話をかける。  正登のひきつった顔を想像して笑みが浮かぶ。肩の荷が下りた……とうとう、本当に僕の手を離れた。

ともだちにシェアしよう!