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第56話 弟のカレシ①

 たった一日外泊しただけなのに、和樹の母・恵の恨みごとが尽きない。 「このビーフシチューだってね、昨日のうちに時間かけて作ったのよ。それなのに急に泊まるなんて。」 「だったら、帰ってこいって言えばよかったのに。そのためにメールしたんだから。」 「そんなことしたら過保護な母親だって思われるじゃないの。」  その通りじゃないか、と言いたいところだが、文句が倍になって返ってきそうで、やめておく。 「だいたいねえ、あなたの部屋、全然片付いてないじゃない。」  今、その話は関係ないと思うんだけど。「片付けたよ。」 「あれじゃ荷物が置けないわ。」 「荷物?」 「扇風機とか、バーベキューセットとか、普段使わないものを置くの。」 「なんでだよ。」 「押入れ、ギュウギュウで取り出しにくいのよ。」 「なんだよ、それ。俺の部屋だろ。」 「あなた出て行くんだからいいじゃない。」 「帰省するだろ。」 「あらまあ、帰ってくる気があるの?」 「……正月ぐらいは。」 「そう。でも、その時ベッドが使えるようになっていればいいでしょ。どうせ寝るだけでしょうから。」 「ひでえの。」 「和樹のほうがひどいわよ、毎日毎日どっか行っちゃって。」  和樹は返事もせず、黙々とビーフシチューを食べる。和樹の好物だ。これを用意して待っていたことを思うと、あまり冷たい対応もしづらいが、煩わしいことには変わりない。 「通帳と印鑑、ちゃんとしたところにしまった?」  また関係ない話。「ああ。」 「分けてよ。一緒にしたらだめって言ったわよね。」 「ちゃんと分けて、それぞれちゃんとしたところに、しまいました。」嘘だった。輪ゴムで一緒にして、送る荷物の中につっこんだ。どの段ボール箱に入れたかさえも覚えていない。 「それから、夏物の服はあとから送るって言ったのに、夏冬ごっちゃにして箱詰めしちゃったでしょう。」 「へ?」 「箱に『服』としか書いてないから開けてみたら、Tシャツもセーターも一緒くたにつっこんであるんだもの。分け直すの大変だったんだから。」 「俺が分かってりゃいいだろ。」 「ジャケットもあんな入れ方したら、くしゃくしゃになっちゃうじゃない。」  ていうか勝手に開けるなよな……。「で、それもたたみなおしてくれたの。」 「したわよ! それから制服、PTAで回収してるの。出していいわよね?」 「何それ。」 「リサイクルするんだって。転入生や留学生に貸したりするのに使うみたい。」 「ふうん。いいよ、別に。」シチューをまた一口。「あ、ネクタイだけとっといて。」涼矢と交換した、思い出の品だ。 「あら、なんで。」 「んー。なんとなく。」  さっきから黙ってやりとりを聞いていた宏樹が、横目でチラリと和樹を見た。 「でも、あれ、和樹のじゃないわよね?」恵が言い、和樹のスプーンを持つ手が止まった。「和樹のネクタイはしみだらけだったもの。部屋にあったのはもっときれいだった。」几帳面な涼矢らしく、ネクタイもきれいに使っていたようだ。 「おかわり。」宏樹がシチュー皿を突きだした。助け船のつもりだろうか。宏樹は和樹とは出身高校が違うので、「卒業時に好きな人とネクタイ交換する」という伝統は知らないはずだが、何か察するところがあったのだろう。恵はそれ以上追及することなく、宏樹の皿を手に、ガステーブルのシチュー鍋に向かった。  食事が終わり、少しテレビを眺めて、入浴。湯上りに着た寝巻代わりのトレーナーは、年季が入っていて首元がだらしなく伸びているが、そのへたった感じが肌になじんで、和樹は気に入っていた。何か冷たい飲み物が欲しくて、皿洗いをしている恵の後ろを通り、冷蔵庫を開ける。そういえば今朝、涼矢の麦茶を飲み損ねたな。あんな風に涼矢のおふくろさんとかちあって……。そんなことを思い出していると、背後から「和樹。」という声がした。朝の出来事と重なって、和樹はビクッとする。声の主が宏樹であることは明白なのにも関わらず。

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