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第58話 弟のカレシ③
その葛藤が顔に出ていたのか、「彼女と、何かあったのか?」と宏樹が尋ねた。
"彼女"じゃない。"彼女"じゃないんだよ、兄貴。心の中で何度もその言葉を繰り返す。宏樹は心配そうに和樹の様子を窺っている。決して興味本位ではなく、心からの心配であることがわかる。一番素直に感情を出せる相手は兄貴だと、涼矢に言ったっけ。兄貴には本当のことを知ってもらいたい。でも、本当のことが正しいわけじゃないという涼矢の言葉も、忘れられない。黙ったまま東京に行くのか。それとも、今は言えなくても、いつかは言える時が来る? いつかっていつ? 今言えないことを、どうしていつかは言える?
「彼女……じゃ、ない。」ついに心の声は、本当の声となって、口からこぼれた。和樹は知らず知らずのうちに、拳を握りしめていた。その手の中は多量の汗をかいている。
「え?」
「彼女じゃない。」
「彼女じゃないって? どういう意味? まさか誰かの奥さんとか、そういう話? あ、でも同級生なんだよな?」宏樹は一転して険しい顔になった。
「同級生だよ。」
「つきあってて、キスマークつける仲なんだろ?」
「そう。」
「それで彼女じゃないって、どういうことだ。」宏樹の口調が厳しくなった。キスマークをつける仲だが、"彼女"ではない。それはつまり"単なるセフレ"、身体だけの関係と割り切った相手なのではないか。宏樹はそう疑っているに違いなかった。そういう意味では宏樹は保守的なモラルの持ち主だから、女性をそんな風に扱うようなら、弟であれ容赦せずに説教のひとつもするだろう。いや、弟であればこそ余計に、厳しくせねばなるまいと身構えている様子だ。
「ちょっと待って。こっちも心の準備があるから。」和樹は目をつむり、深呼吸した。宏樹はそれをむすっとした顔で待っている。
「彼氏。」
「……。」予想外の単語に、宏樹はきょとんとした。
「彼女じゃなくて、彼氏。相手、男なんだ。」
「……デジャブ?……じゃないな。ええと。」
「そう、前に話した、俺に告ってきた奴。」
「あれはおまえ、一日だけデートしてやって、けりつけたって言ってなかったか。」
「そうだよ。デートして、結論を出した。つきあうって。」
告白された日に宏樹に相談した。その時の宏樹は、小さな目を真ん丸くしていたが、今日の宏樹は、ただただフリーズしていた。
「驚かせてごめん。」
「な、何か弱みでも握られて……?」
「違うよ。告白は向こうからだったけど、つきあおうって言ったのは俺から。」
「でも、カズ、あの時は、そんな風には考えられないって。」
「うん。告白された時はね。今の兄貴と同じ心境だった。でも、二人で会って、いろいろ話したり、メシ食ったりしてたら、なんかさあ。」
「なんかさあ、じゃないだろう。」宏樹は和樹を上から下までまじまじと凝視した。その視線が、ある一点で止まる。「その、それ。」首元の、キスマーク。「そいつがつけたってこと?」
和樹はまた、反射的に隠すようにそこに手を置いた。そして、無言で箪笥に歩み寄り、首元まで隠れるハイネックの長袖Tシャツを出して着替えた。
「じゃあ、俺のプレゼントは無駄になったなあ……。」コンドームのことだ。言うに事欠いてその件を真っ先に思い出すのは、それほどまでに混乱している証拠だ。
「無駄にはなってない。」
「え。」
「避妊の必要がなくても使ったほうがいいんだってさ。」混乱の続く宏樹と対照的に、和樹は開き直りの境地に移行しつつあった。「その理由、知りたい?」
「……。」
「彼氏のおふくろさんに言われたよ。病気になる可能性があるからゴムは使えって。」
「おふっ……?!」ついに例の、真ん丸の目が現れた。
「そ、向こうの母親にはバレちゃってんの。だから、俺も、兄貴には言っておきたかった。俺だけ隠してるのって、なんか嫌だし。」
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