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第63話 a quiet day ④
実際には、そのバナナ涼矢画像を「使う」ことはなかった。見ると笑ってしまうからだ。どんな気持ちでこの写真を撮ったんだろうなぁ、あいつ。
無愛想で無表情がトレードマークだった涼矢。いつの間にか、和樹の中では誰よりも表情豊かに見える存在になった。その涼矢の、ベッドの上の表情、淫靡な目、喘ぎ声、時に乱暴とも思える言葉、自分を強く抱く腕、激しく何度も自分を貫くもの。それらを思い出しながら、和樹は自慰をした。以前は声など出さずに、ただしごいて出すだけ、物理的な刺激で行うことの多かったマスターベーションだったが、今は前だけでなく、後ろも刺激するようにもなった。ふとした弾みに自分でも意外なほどの甘い喘ぎ声が漏れ出てしまう。
俺、一人暮らし、耐えられっかな。ことを済ませて我に帰ると、そんなことを考えてしまう。H画像送ってと言えば一応は答えてくれた涼矢。電話Hしようと言えば答えてくれるかなあ。そんなこと言ったら、またあの冷たい声で罵倒されるんだろうなあ……。うーん、涼矢の罵倒、それはそれでいいような気がしてきたな。って、俺、かなりヤバい境地に来てないか?
……自分の部屋でごろごろしてるからそんなことばっかり考えるんだ。よし、気持ちを切り替えて、と。今日は、なんたって、家族のために過ごす一日だからな。
和樹は、キッチンに立ち、涼矢の作ったオムライスを思い出しながら、人生初のオムライス作りに挑戦することにした。炒飯ぐらいは作れる。あれの味付けをケチャップにして、玉子で巻けばたぶんそれっぽいものはできるだろう。そう当たりをつけて、作り始めた。
「ごめーん、思ったより時間かかっちゃった。」そう言って恵が帰宅したのは、正午を少し回った頃だ。
「ちょうど良かった。今、できたとこ。」
「和樹が作ったの?!」恵はダイニングテーブルの上に置かれたオムライスに、いたく感激した。薄焼き玉子は厚みが不均等でところどころ破れているものの、全体的な見た目としてはそれほど悪くない。「すごいじゃない。」
「あんまりきれいに巻けなかった。」
「そんなことないわよ、充分よ。それにね。」昂奮が冷めやらないのか、コートも脱がないまま、恵は冷蔵庫からケチャップを出す。「このぐらいはケチャップかけちゃえばわからないわ。」
和樹は涼矢の体育会系メイドを思い出したが、さすがにそれを母親相手に再現する気にはなれなかった。
実際に食べてみると、やはり「炒飯をケチャップで味付けしたもの」としか言いようのない味ではあったが、まずくはない。その程度の仕上がりだ。涼矢のオムライスは、もっと味わい深く、玉子もこんな風にパサパサではなかった。それでも恵は満足そうに勢いよく食べた。和樹が料理をするのは恵が不在の時だけだから、恵は和樹の手料理を食べたことがない。
「これぐらい作れるなら上等よ。安心した。」恵はにこにこしていた。
「もっと教えてもらっておけばよかった、料理。」
「今はネットにレシピや作り方のサイト、たくさんあるわよ。私だってああいうの時々見ちゃう。」
「そういうのじゃなくて、母さんが作って、家で食べてたものをさ。ほら、ビーフシチューとか。」
恵は一瞬絶句した。それからフンと得意気に鼻を鳴らすと、「そういう我が家の味は秘伝だもの。あなたたちの将来のお嫁さんにしか教えない。」
お嫁さん。和樹の脳裏に、ごつい身体にウエディングドレスをまとった涼矢の姿が浮かんだ。「お嫁さん……は、期待しないで、俺に教えてよ。」
「だって、おふくろの味が自分で作れるようになっちゃったら、あなた、ますます帰省しないでしょ。」
「はは。」力なく笑う。お嫁さんか。そうだよな。親は、そう思うよな。いつか息子に彼女ができて、結婚して、孫が生まれて。それを期待するよな。昨日、兄貴にあんなみっともない姿を見せて、涼矢のこと、話しちゃったけど……。まだ親には、無理だ。特に口止めしてないけど、この様子だと兄貴も母さんには何も言っていないんだろう。そりゃあ、言えないよな。そうだよな……。
「そう言えば、美容院の帰りにね、お父さんから連絡あったわ。七時にN駅だって。お父さんは会社から直行するって。」いい具合に恵が別の話題を切りだしたおかげで、和樹はふつうに振舞うことができた。
「わかった。じゃあ、家を出るのは六時半ぐらいだね。兄貴は?」
「うちのほうがN駅に近いから一度は帰るつもりだって。」
「ふうん。」
「あの子より和樹のほうが先に結婚しそうよねえ。真面目なのはいいけど、あまり何もないっていうのも困るわ。ねえ、宏樹って彼女いないのかしら。あなた何か聞いてない?」せっかく変わったはずの話題が、微妙に元に戻る。「男子校の先生なんて、ますます縁遠くなりそう。」
「男子校でも、女の先生はいるだろ。」
「いやあよ、嫁が先生なんて。姑の威厳が保てないわ。」
「嫁が先生でも威厳とか関係ないと思うけど……。ま、大丈夫だよ、兄貴は。」
「そうよね。」
俺と違ってね、と言いたくなったが、また恵の気を損ねそうでやめた。せっかく穏やかで機嫌がいいこの状態を、なるべく長く持たせるのが、今日の俺の使命だ。
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