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第64話 in the Pool ①

 予定通り、夕方には宏樹が帰宅した。今日初めて和樹と顔を会わせたが、暗黙の了解でお互いいつもと変わりなく接した。それから父親の隆志と合流すべく、三人一緒に家を出て、N駅に向かう。  隆志が予約したという店は、和食だった。和食といっても、店内のインテリアはモダンな雰囲気で、出てくる料理も洋食のテイストも取り入れた洒落たもののようだ。 「よくこんな店、知ってたね。」と和樹が言うと、会社の人と来たことがあるんだ、と隆志が答えた。なんでもその人は定年手前の先輩社員で、社内では有名な美食家なのだという。接待などで店探しをする時には、その人に聞けば即座に条件に見合った店を教えてくれるらしい。 「結婚したことは一度もないそうだが、彼を見ていると独身も悪くないなあと思う時があるよ。稼いだ金は全部好きに使えるし、休日も勝手気ままだ。食べ歩き以外の趣味もいろいろあって、友人も多いから、ちっとも淋しそうじゃない。そう言うと、隣の芝生は青いものだと言われてしまうけどね。」  コース料理も中盤まで進み、いささかアルコールが回ってきたらしい隆志がそんなことを言った。和樹はまた恵が「結婚しなきゃ良かったとでも思ってるの」などとヒステリーを起こすのではと警戒したが、その心配は無用だった。 「そんなものよね。私も独身の頃は結婚した友達が羨ましかったし、子育てに追われていた時は身軽なシングルが羨ましかった。今はバリバリ仕事している人はいいなと思うことがある。でも、そういうのってないものねだりなのよね。ないものばかり数えてないで、持っているものに気づいて、大事にしないとだめよね。そういう大切なものを、なくなってから大切だったって気が付いたって遅いのよ。宏樹だって、和樹だって、ずっと小さい赤ちゃんみたいに思っていたけど、こうして独り立ちしていくんだしね。あっという間だわ。」  途中から話が変わった気がするが、恵の淋しさはひしひしと男たちに伝わっていた。  数年ぶりの家族そろっての会食は、こうして、ほんの少しの切なさや淋しさを滲ませながらも、滞りなく過ぎた。  涼矢や涼矢のお母さんの言うとおり、家族との時間をきちんと持って良かった。  帰宅した和樹はつくづくそう思った。あのまま涼矢のところに入り浸り、ろくに家族と話もせずに上京してしまったなら、家族は何かしらの不満と不安を和樹に対して抱き、それは後になってどんなに和樹が繕っても、しこりとして残ってしまったかもしれない。それがどうだろう。たった一日と少し、家族のために費やしただけで、和樹の信頼度は急上昇し、これからの生活を全面的に応援してくれる空気が感じられる。  翌日、和樹と涼矢は約束通り市民プールに向かった。朝、恵に友達とプールに行くと告げると、これまでのような「また遊びに出かけるの?」と言いたげな不満顔を見せることもなく、上機嫌に送り出してくれた。  和樹と涼矢は更衣室で水着に着替えた。涼矢は、部活の時と同じ競泳用水着だ。和樹の短パンスタイルの水着を見て、しまったという顔をする。 「そういうのにするならそう言えよ。俺だけこんなの、恥ずかしい。」二人は連れ立って更衣室からプールのほうに移動しながらしゃべった。 「気にするなよ、誰も見ちゃいないよ。」 「じゃあ、おまえもこっちにすればいいじゃないか。気になるから、そういうのにしたんだろ。」 「えー、だってそんなの言わなくてもわかるかと思った。」 「わかんないよ、水着なんてスクールか部活でしか着たことないんだから。女の子とちゃらちゃら海とかプールとか、遊びでそういうとこ行ったことないんだよ。」 「そうか。ここだって初めてって言ってたもんな。それは気が付かなくて失礼した。」 「なんかむかつく。おまえさ、そもそもなんでここ来たことあるわけ。部活でさんざん泳いで、わざわざデートでこっちまで来たの?」 「ああ、俺、前はこっちに住んでたんだよ。中学まで。ここから五分位のところに親父の社宅があって。今の家買って、社宅は出たんだけど。」  不機嫌だった涼矢のムスッとした表情が崩れ、へえ、という顔に変わった。 「だから、同じ中学の奴がいなかったのか。和樹ん家、Y町だろ。あのへんならY中学だから、何人もうちの高校来てる奴いるのに、それっぽい友達いないから妙だなと思ってた。」 「そういうこと。今日は俺の昔の友達に会うかもしれないねえ。そしたら、彼氏ですって紹介しちゃおっかな。」 「やだよ。」二人はプールサイドで軽く準備運動をする。「それと、それ。絆創膏してこなかったの、なんで。」首のキスマークのことだ。 「忘れてた。」 「なんでもかんでも忘れるなよ、もう。」 「忘れたのこれだけだろう。あ、そうそう涼矢。」屈伸しながら和樹が言う。「こういうとこだからな、目立ちたくなかったらマジ泳ぎはナシ、な。」  市民プールには幼児用など複数のプールがあるが、メインの25メートルプールは、全部で8コース。そのうちの2コースは自由遊泳用となっており、主に泳ぎを練習中のこどもが使っている。泳ぐ以前の、顔付け練習やだるま浮きレベルの子も少なくない。その反対側の2コースは水中ウォーキング用で年配者がのんびりと歩いている。つまりまともに泳げるのは真ん中の4コースだけで、そこにしても「25メートル泳げる」というだけの、大して泳ぎがうまいわけではない人たちが泳いでいる。 「ああ……なるほど。」涼矢はその様子を見て和樹の言葉に納得するが、「でも。」と続けた。「めちゃくちゃ期待されてる気がする。」 「え?」  涼矢の視線の先をたどると、遊泳コースにいたこどもたちがプールサイドまで寄ってきて、和樹たちをワクワクした目で見ていた。和樹たちは再度プールの中の人々を見る。歩くのがやっとという雰囲気の老人。痩身のために来ているのだろうと思われるふくよかな中年女性。よくそれで沈まずに前に進めるものだと逆に感心してしまうようなフォームで泳ぐ青年。それらのメンバーの中で、ガッシリと筋肉をつけた長身の二人組は、見た目だけで既に目立っていた。 「涼矢がそんなの履いてくるから……監視員ぐらいだぞ、その露出度。」 「いっそ監視員のふりするかな。」 「ムリだろ、ていうか監視員もこっちガン見してる。」 「この状況で手抜きしたら逆に目立つんじゃねえの。」 「だな。」

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