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第71話 Stairway ③
「俺は、言いたい。」和樹が断言した。涼矢はうつむいた。「おまえが不安なの、わかるよ。つうか、前からわかってたつもりなんだけど、兄貴に話した時に、本当にわかった気がしてる。俺は、兄貴に話せて良かったと思ってる。それで、できれば、この人が僕の好きな人ですって言えたら、もっと良いなって思ったんだ。でも、涼矢の気持ちのほうがその何倍も大事だから、嫌なら、絶対に言わない。」
「今決めないと、だめだよね。」うつむいたまま、涼矢が力なく言った。和樹は、こんなに涼矢が小さくかよわく見えたことがなかった。
「いや、いいよ、大丈夫。」思わずそう声をかけた。「今日じゃなくても。会うのもちょっと無理っていうなら、ほら、部屋で二人で食べるとか何とか言って、兄貴とは顔を合わせないで済むようにするから。そのほうがいい?」
涼矢はコクリとうなずいた。
「わかった。急にこんなこと言って、ごめんな。」
「ううん。俺が、ごめん。」涼矢は膝を抱えて、背中を丸め、その膝の間に顔が沈むほどうつむいて、小さくなった。
もう、自分の母親にはバレてるのに。お互いの愛情を疑う段階も過ぎているはずなのに。
それでも、越えられない、涼矢の中の、壁。
涼矢はきっと、自分と親との関係や、自分自身が傷つくのはどうでもいい、あるいは、仕方がないと覚悟している。でも、俺と兄貴の関係が壊れてしまうことには、耐えられないんだ。
でも。
でも、それで、いいのかな。
俺は、その涼矢の壁を、涼矢の問題だと、切り捨ててしまって、いいのかな。
涼矢は、泣いたことがあるのかな。この前の俺みたいに。自分の気持ちをあふれさせたこと、あるのかな。
初恋の人を失った時。俺を好きだと自覚した時。涼矢は、膝を抱えて小さく丸まって、ひとりで耐えていたのかな。
今と同じように。
俺がいても。俺がいるのに。
それで、いいのかな。
和樹は涼矢の近くに行き、涼矢をまるごと抱えるように腕をまわした。「なあ、涼矢。」
「ごめんな。せっかく……。」
「うん。いいよ。ただ、こういうのはどう?」
涼矢が顔を上げた。泣いてはいない。
「みんなでご飯食べよう。おふくろも、兄貴も一緒に。俺、単なる友達として、涼矢のこと、話す。涼矢は、何か言われたら、自分の話したいように話して。黙っていたかったら、黙っててもいいよ。それで、兄貴のこと観察して。おまえの観察眼なら、兄貴のこと、すぐわかると思う。話してもいいかなって思ったら、食事の後にでも、兄貴に言いに行こう、二人で。やっぱり無理ってなったら、何もしない。その時には、万一兄貴に何か言われても、ただの友達で、彼氏じゃないって押し通そう。どう?」
涼矢はしばらく考え込んだ。そして、「うん。」と小さな声で答えた。
「無理しなくていいからな。」と和樹が念押しした。それから、涼矢の手を取り、両手で包むように握った。「おまえが何を言っても、何も言わなくても、俺は傷つかない。何があっても、おまえとのことで、兄貴と俺の関係がおかしくなることはない。だから、心配するな。」
涼矢は黙って何度もうなずいた。声を出すと涙も出そうなのだろう。
「様子見てくる。」そう言って和樹は部屋を出た。
「ああ、もうすぐできるわよ。宏樹も一緒でいいよね?」恵はお箸を並べていた。既にテーブルには唐揚げを始めとする各種のおかずが並んでいた。
「うん。兄貴、呼んでくる?」
「そうね、お願い。」
和樹は自分の部屋を通り過ぎて宏樹の部屋の前に行き、ドアをノックする。「メシだよ。」
「おう。」中から返事がした。
自分の部屋ではドアを少し開けて中には入らず、「涼矢、メシ。」と声だけかける。涼矢は返事はせずに、ただ、立ちあがった。
「大したもの作れなくて、ごめんねえ。」と恵が涼矢に言った。
「いえ、すごい、ごちそうです。」テーブルの上には山盛りの唐揚げをはじめとして、乗りきらないほどの料理が並んでいた。
「おうちの方には連絡した?」
「あ、はい。」その様子はなかったが、涼矢の家は普段から個別行動が多いから、そういった密な連絡は不要なのだろう。
そんな会話をしながら、恵はごはんと味噌汁をよそい、「たくさん食べてね。」と言った。
「こいつ、こう見えて結構大食いだから。」と和樹が言った。
「あら、そうなの?」恵が笑う。「そういえば今日プール行ったのよね。あなたも水泳部?」
「はい。」
宏樹がやってきた。「おー、すげ。」食卓の大量の料理を見て感嘆の声を上げる。
「こんなに作ったの、久しぶりよ。去年まではよくどちらかのお友達が来てたけど。」
「かぶったこともあったよな。お互い二、三人ずつ連れてきちゃった時は、合宿所みたいになってさ。ま、今年は受験だし、就活だし。」そう言った後、宏樹は涼矢のほうを向いて「こんちは。こいつの兄貴です。」と自己紹介した。
「こ、こんにちは。田崎です。」
全員でいただきますと言い、食事がスタートした。
「水泳部だって?」と宏樹。さっきの会話が聞こえていたようだ。
「はい。」
「大学でも続けるの?」
「いや、もう。」
「ラグビーやんなよ。基礎体力あるんだろ。ガタイも良いし、ちょっと鍛えれば行けるよ。ラグビーって大学から始める奴、結構いるしさ。何大?」宏樹は唐揚げをつまみながら、一気に話しかけてきた。
「N大です。」
「ああ、あそこもラグビー部、あるよ。なかなか強い。」
ほぼ同時に「N大だったら市内よね。近くていいわねえ。」と恵が言った。
「はあ、まあ、親が、自宅通学できるところじゃないとダメって。なんか、女の子じゃあるまいし、恥ずかしいんですけど。」
「親孝行だわ。」と恵。「仕送りだって、大変だもの。」
「うち、父が単身赴任で既に二重生活だし、母も忙しい人なので、これで僕まで家を出るというのもなかなか。一人っ子だし。」
「あら、そうなの。ご両親ともお仕事なさっているのね。すごいわ。」
「別に、すごくは……。」
その時、宏樹が「もしかして、ご両親って、法曹関係?」と涼矢に尋ねた。
涼矢は一瞬口澱む。宏樹に探りを入れられている気がしたからだ。和樹がどこまで宏樹に話してあるのか見当がつかない中での会話に、涼矢は緊張していた。
「ええ、まあ、そうです。」
「え、違うだろ?」と和樹が言った。
「違わないけど?」と涼矢。
「だって検事と弁護士だろ?」
食卓が数秒シンとした後、宏樹と涼矢の二人が揃ってプッと吹き出した。
「ホーソー関係って、テレビ局やラジオ局のことじゃないよ?」と宏樹が説明した。「法律関係、のほうな。」
「やだ、私もテレビ局の人だと思って聞いてたわ!」と恵が言い、今度は全員で笑った。
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