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第74話 Stairway ⑥

 宏樹が部屋を出た瞬間、涼矢は、ふう、と息を吐いた。 「全然だめだったな、俺。」と和樹が頭をかいた。 「俺は、大丈夫だった?」さっきまで堂々とふるまっていたように見えた涼矢が、また心細そうな表情になっている。「変なこと、言ってなかった?」 「おまえは何の問題もなかった。完璧。」和樹はサムアップのポーズをしたが、その指は震えている。「うわ、めっちゃ緊張してたみたい。まだこんなだ。」 「俺も……。」涼矢は正座をして、拳を握りしめたままだった。その拳を顔の前にまで上げて、ゆっくりと手を開いていった。強く意識しないとそれすらもできないほど、握りしめていたようだ。  二人の間に、それ以上の会話がないまま、数分が過ぎた。  涼矢は恵に風呂を勧められ、浴室に行く。浴室の前で、母親に和樹の家に泊まることを送信した。聞かれたわけでもないのに、和樹の家族もいることをつけくわえてしまうのは、やはり後ろめたさがあるからか。  一人になった和樹を呼ぶ声がした。宏樹だ。和樹は声の方向に行く。両親が寝起きしている和室からだった。「布団運ぶの、手伝え。」 「ああ、うん。」押入れから来客用の布団を出した。敷布団と毛布を宏樹が、掛け布団と枕を和樹が抱える。 「母さんには、俺から言っといたから。彼にも、ちゃんと家の人に言うように言っとけ。」 「うん、ありがとう。」 「あ、ねえ、和樹。」と恵が飛んできた。「お布団ね、急だったから干してないの、布団乾燥機、使う?」 「いい、いい。」 「あと、シーツこれね。」真っ白なシーツを恵に手渡されて、ちょっとドキリとする。ドキリとしたことを宏樹に悟られなかったかと、横目で宏樹を見た。特に反応はない。  宏樹は和樹と一緒に布団を敷くと、一仕事終えたと言うように手を叩き、「よし、じゃ、後はごゆっくり。」と言った。「あーっと、カズ。」 「ん?」 「ボリュームには、気をつけろ。おまえの部屋ほどじゃないが、ここからだって、台所まで響くことはある。」小声で言う宏樹。 「に、にいちゃん、何を……。」動揺のあまり、小さな頃の呼び方に戻ってしまう和樹だった。 「カズは留守の時だったんで知らないだろうが、実証済みだ。AV見てたらヘッドフォンが外れて、おふくろが血相変えて駆け込んできたことがあった。」 「にいちゃんの部屋は鍵ついてるだろ。かけてなかったの。」 「そのことがあったから、つけたんだよ、俺が、なけなしのバイト代から、自腹で。」 「わ、わかった。気をつける。」そう言うしかない。 「それと。」 「まだ何か。」 「俺のベッド、普通に寝る分にはどっちが寝ても構わないが、二人で寝るのは布団のほうでやってくれ。」 「……。」どう答えればいいのか。 「あと。」 「まだあるのかよ!」 「シーッ!」宏樹は人差し指を立てて口に当てた。「出たゴミはちゃんと持ち帰れよ。」  なんだか遠足の注意みたいになってきたぞ、と思いながら、和樹は「わかった」とうなずいた。  その頃、涼矢は入浴ついでに、今日使った水着を洗っていた。タオルはセームタオルだから、そのまま持ち帰ることにする。  貸してもらった部屋着兼パジャマは、大きさから言って宏樹のもののようだ。和樹のものはあらかた荷造りされてしまって、余分がなかったせいだろう。  和樹の部屋に戻ろうとしてドアノブに手をかけた時、宏樹の部屋に移動したことを思い出した。改めて宏樹の部屋に行く。中に入り、ドアを閉める。その時、ノブの下に、簡易な後付式の鍵がついてることに気がついた。 「こっちは、鍵があるんだ。」と涼矢が言う。 「そう。」和樹はニヤリとする。「俺がその恩恵にあずかるのは、今日が初めてだけどな。」  そして、和樹が涼矢と入れ替わりに浴室に向かおうとした時、涼矢が洗った水着をひらひらさせて、干すところはないかと聞いた。和樹はどこからか小物干し用のピンチハンガーを持ってきて、カーテンレールにひっかけた。 「サンキュ。」  和樹は和樹で、湯につかりながら考える。事態は好転していると思うべきだろうか。そりゃあそうだろう。事実上、二人の仲を兄貴に認めてもらった。涼矢が俺を好きな理由も判明した。ピアノが弾けることも知った。兄貴の『きみのほうが和樹よりなんでもできる』の発言にはちょっと傷ついた。が、言われてみるとその通りだった。ただ「人によって態度を変えないから好き」っての、人を好きになる理由としては、どこかインパクトに欠けるというか、弱い気がするんだよな。でも、だったら俺が涼矢が好きな理由って? 俺より頭が良くて、水泳も速くて、絵が上手で、料理もできて、ピアノも弾けるから? そんなんじゃない。そんな好条件をいくつ並べたところで、だから好き、ということにはならない。  集中したい時にやる、「ぶくぶくと水面下に顔を沈めて息を止める」をやってみるも、考えはまとまらなかった。  ふと、涼矢の言葉を思い出す。「わかりません。気がついたら、好きだったんで。」そう、それだな。好きになるって、結局、そういうことだ。  和樹は宏樹の部屋に戻る。ベッドに腰掛けていた涼矢が一瞬ドキッとしてこちらを見た。和樹は部屋の鍵をかけた。

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