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第100話 My sweet home ④

 恵は困惑しながらも、少し嬉しそうだ。 「和樹は親戚の結婚式も行ったことないしね。こういう機会も悪くはないかもしれない。田崎くんなら、安心だし。」恵は独り言なのか和樹に聞かせたいのか、曖昧な言い方でそう言いながら、何か考えている様子だ。それから、ふいにキッチンから消え、しばらくして何かを手にして戻ってきた。「これ、宏樹の成人式のスーツ。大きいと思うけど、お父さんのじゃ小さすぎるでしょう。ちょっと着てみなさい。」  だが、宏樹のスーツはあまりにもぶかぶかで、それでも和樹は構わないと言ったが、元モデルの恵には許しがたいシルエットのようだった。 「だったら高校の制服でもいいし、それか、ジャケットとチノパンとかでいいんじゃないの。大学の入学式だってそれで済ませるし。」 「せっかくZホテルなのに。」恵は、親の自分達でさえ行けない高級店に息子を連れて行ってもらうにあたり、ありがたいと思う反面、いくばくかのプライドが傷ついており、せめて服装なりともパリッとさせたいという見栄もあるようだ。  結果的には高校の制服に落ち着いた。段ボール箱に詰めたジャケットやパンツを探し出してアイロンをかけるより、リサイクルに出すためクリーニングに出しておいた、きれいな状態の制服のほうがまだましだったからだ。 「入学式の時には、ちゃんと前もって準備しなさいよ。確かアイロンも買ってあげたわよね? 自分でアイロンがけする暇がないなら、クリーニング屋さんでもやってもらえるはずよ。」この騒動のせいで、恵からのご注進がまたひとつ新たに追加された。 「今日のところは素直にごちそうになりなさい。きちんとお礼は言うこと。後で私から何か贈るから住所を教えて。」 「住所は知らない。スマホでしか連絡取らないから。」 「まったく今時の子は。」そんなこと言われても、と和樹は思うが、黙っている。「田崎くんに聞いておいてよね。」 「聞くのは良いけど、お父さんは普段は単身赴任してるよ。」 「あら、じゃあ、どちらに贈ったほうがいいのかしらね。」 「まあ、それも含めて聞いておくよ。」 「いい? そんなお礼なんていりませんと言われても、必ず聞くのよ? 男の人はそういうの無頓着だけど、母親はね、そういうの気にする人が多いから。そうねぇ、それを考えたら、やっぱりお母様のいらっしゃるご自宅あてのほうがいいかしらね……。」 「お母さんは来ないよ。」 「だから余計気を遣わないといけないの。自分のいないところで夫と息子が高級フレンチなんか行って、しかもよその子の分までお金使ったなんて、一家の主婦ならおもしろくないに決まってるわ。」  そんなこと決まってないだろうに。主婦だっていろいろだし。少なくとも涼矢のお母さんは一般的な主婦とはだいぶ違う。……と、和樹は思うが、もちろん、これも黙っている。  とりあえず和樹にとって最難関だった服装が決まったので、あとは待つだけだ。  車で迎えに来るということは、涼矢の父親が運転してくるんだよな。ていうことは、お酒は飲まない人なのか。いや、帰りは代行か。まさか、お抱え運転手がいるんじゃないだろうな。でも、なじみの店がZホテルなんて聞くと、あながちないこととは言えない気がする。車もすげえ高級外車だったりして。  和樹は見知らぬ田崎氏を妄想したが、まったくもって具体的な映像は出てこない。声を聞く限りでは、穏やかな中にも有無を言わせぬ力強さは感じたが、年配者特有の傲慢さはなかった。そんなところは、涼矢の父親らしいと言えば父親らしい。  約束の6時半が近くなり、和樹は制服を着て、髪の毛を撫でつけるなどの身支度の最終仕上げをした。鏡に映った姿を見ると、この間まで着ていた制服がやけにこどもっぽく見えた。涼矢はおそらくスーツを持っているのだろう。その隣に並ぶことを考えたら、やっぱり多少ぶかぶかでも宏樹のスーツのほうが良かったのではないかと後悔したりする。だが、もう時間はない。  6時32分にインターホンが鳴った。和樹と、その後から恵が玄関に出向く。ドアを開けると、涼矢と、声の印象の通り、落ち着いた風貌の中年男性が立っていた。とおりいっぺんの挨拶を交わすと和樹たちは車に乗り込んだ。恵は道路まで出て、見送った。車は国産の一般的なセダンで、お抱え運転手はいないようだった。 「今日は急にお呼び立てして、申し訳なかった。」運転席の田崎氏が、後部座席に涼矢と並んで座っている和樹に話しかけた。 「いえ、こちらこそ、なんか、すみません。」 「そうしていると、二人ともまだ高校生だね。あ、31日までは高校生か。」田崎氏はミラーにうつる二人の姿を見たようだ。涼矢も、制服を着てきていた。 「スーツじゃないんだ。」と和樹が呟いた。 「和樹も制服かなと思って。良かった。」涼矢のそんな気遣いに和樹は感謝した。目を凝らすと、涼矢のネクタイには、確かにシミがあった。いつだったか恵が指摘していた、和樹が付けたシミ。卒業の時にネクタイ交換をしたから、そのネクタイを、今は涼矢がしている。  田崎氏は、銀縁の眼鏡をかけていて、年齢の割には長身、若干痩せ気味。白髪混じりの髪はこざっぱりと整えられている。横顔のラインは涼矢とよく似ていた。正面から見ると、大して似ていないのがおもしろい。 「佐江子が…ああ、佐江子というのは涼矢の母親だが、都倉くんのことをえらく褒めていてね。彼女はあまりそういうことを言うほうじゃないから、珍しいこともあるものだと思って聞いていたんだよ。自宅に戻るのはお正月以来なんだけれども、この短期間に涼矢が随分と大人になっていて驚いた。それもきみのおかげだと聞いて、ぜひとも会いたくなってしまって。」 「俺が褒めていただくようなことなんかないですよ。涼矢は前から俺よりずっと大人で、なんでもできますから。俺のほうこそいつも助けられてばかりです。」 「ははっ。」と田崎氏は笑った。「初対面のおじさん相手に、それだけ堂々と社交辞令が言えれば大したものだ。なるほど、確かに佐江子が気に入るわけだ。と言ってもね、彼女が一番褒めていたのは、きみの目だ。まっすぐで、嘘がない目だと言ってた。性格も、育ってきた環境もいいんだろう。」 「父さん、もう、そのぐらいにして。」涼矢が口を挟んだ。「そういうの、分析されているみたいで、気分良くないよ。」 「職業病が出たかな。わかった、もうこの話はやめよう。」

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