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第101話 My sweet home ⑤
なんだ、すごくまともな人だ。涼矢からの話に少々怯えていた和樹だが、実際の田崎氏は至って常識的な大人にしか見えない。
「アレルギー食材や苦手なものはありますか? または、特別に好きなもの。」席に着くと、田崎氏が聞いてきた。特にない、と言うと、「では、メニューは私に任せてもらって構わないですか?」と引き続き丁重な言い方で聞かれる。はい、という和樹の答えを受けて、田崎氏はギャルソンに何か伝えていた。ところどころ聞き取れる内容からすると、通常のコースメニューのいくつかを、田崎氏の希望に合わせてアレンジするようにオーダーしているようだ。メニューを見ることなくそれをやってのけるところからして、なじみの店というのも嘘ではないのだろう。
続いて、「彼も炭酸水でいいのかな?」と涼矢に聞いている。
「ペリエとか平気だっけ。ジュースもあるけど。」涼矢が和樹に聞く。
「涼矢と同じでいい。」このような場に不慣れな和樹は、とにかく涼矢に合わせることにした。
ごちそうになった金額をチェックして来るようにと恵からお達しがあったのだが、こんな経緯で、和樹の目に価格の分かるメニューが回ってくることもなく、当然店の前に料理サンプルが並ぶ手合いの店でもない。結果的に言えば支払いも無言のうちにカードで精算され、わからずじまいだった。
アミューズに始まり、前菜にスープ、魚料理と肉料理の合間のグラニテも、フロマージュもある、本格的なフルコースだ。料理名こそ呪文のようで何が何だかわからなかったが、どれもこれも美味しい。慣れないフレンチ、しかも涼矢の父親と同席という状況では、緊張で味など分からないのではないかと危惧していた和樹だが、意外なまでに楽しい食事の席だった。それはひとえに、でしゃばり過ぎることもなく、それとなく話しやすい話題をふってくれる田崎氏の手腕によるところが大きい。また、和樹がマナーに戸惑いそうな時には、半歩先に恥をかかせない程度に「こうするといい」を示してくれる心遣いも完璧だった。俺が女だったら、絶対惚れる、と和樹は思った。そうやって惚れた女がブルドーザー佐江子だと思うと、納得できるようなできないような妙な気持にもなるのだが。
「昨日もここ?」と涼矢が父親に尋ねた。そういえば昨夜ラブホに行く前の会話で、「両親は今頃高級ディナー」と言っていたな、と和樹も思い出した。
「いや、昨日は駅前の焼き鳥屋。」フォアグラの乗ったステーキを切りながら、田崎氏が言う。「佐江子さんが焼き鳥が食べたいと言うから。」
「もしかして、○○亭?」それは駅前にある、チェーン店ではなく個人経営の焼き鳥屋で、カウンター席しかない狭い店だ。焼き鳥とタバコの煙に燻されること必至だが、安くて美味しいと呑兵衛たちの間では評判だ。和樹は店名を聞いてヒヤリとする。昨夜のラブホテルは、まさにその焼き鳥屋の近くの細道を入っていった先にある。ニアミスしていたのかもしれない。
「そう。あそこはいつ行っても美味しいね。」焼き鳥屋の価格とは桁がひとつ違うであろう料理を口にしながら、田崎氏はそんなことを言った。
「道理で、昨日は二人ともタバコ臭かったわけだ。」
「きみはなんだか良い香りがしていたねえ。」
涼矢と和樹がフリーズした。和樹はそっと田崎氏の様子をうかがうが、表情はさっきまでと変わらないように見える。思えば迎えに来た時から終始一貫しての柔和な笑顔。表情から感情が読み取れないという意味では、無表情と変わらない。和樹はふいに田崎氏に恐怖を感じた。
「良い香り」の件がそれ以上展開することはなく、話題は田崎氏が現在いる札幌の話に変わり、和樹たちは胸を撫で下ろした。が、田崎氏が何故そんな発言をしたのかについてはグレーのままに終わったのだった。
やがて、デセールが供された。色とりどりの小さなケーキやアイスに、フルーツソースが添えられていて、絵画のように美しい一皿だった。女の子なら即座に写真を撮ってSNSに載せるところだろうが、むろん、三人はそんなことはしない。田崎氏はお酒もたしなむが、こういったスイーツも好きなのだと言った。
「佐江子は辛党で甘いものはまるっきりNGなものだから、美味しいケーキのある喫茶店に行くのはもっぱら涼矢と二人だったなあ。涼矢は小さい時、よく女の子に間違えられるほど小柄で、顔も可愛らしかったから、私一人では入りづらい女性向けの店に連れて行くにはちょうど良かったんだが、そのうちつきあってくれなくなって。10歳ぐらいまでかなぁ、一緒に行ってくれたのは。卒業する頃にはそれはそれはそっけなくて、たまに会っても口もろくに聞いてくれやしなかった。」と笑った。
田崎氏の話す思い出話。その舞台となっていた頃、涼矢はまさにその小柄な体格に悩んでいたはずだった。父親に相談することもできず、唯一相談できた同性の家庭教師に思慕を抱いた。人一倍聡明で息子を愛してやまない両親に恵まれながら、一人で、自分の初恋と、その相手の死の衝撃と、性指向の自覚に悩んでいたはずの頃。田崎氏はそれに全然気づかなかったのだろうか。今でも、何一つ知らないのだろうか。ここまで行き届いた配慮のできる人が、溺愛する息子については、そこまで鈍感でいられるものだろうか。それとも、息子だからこそ見えないのだろうか。和樹は田崎氏の読めない表情に愛想笑いを返しながら、彼をどこまで信用していいのか判断つきかねていた。
そして、最後のコーヒーが出てくると、「都倉くん。」と田崎氏が話しかけてきた。「おかげで今日はとても楽しかった。涼矢が友人と一緒にいるのを見るのは小学校の授業参観以来のことで、非常に興味深かったよ。きみと話している時の涼矢は、私には見せないような表情をする。涼矢はいささか人間関係の構築が苦手なところがあったので心配していたのだけれどね、どうやら杞憂のようで安心した。これからもよろしく頼みます。」
「は、はい、こちらこそ……。」和樹の脳裏に、ジオラマの田崎家の近くに、ひとり立たされる自分の人形が添えられる絵が浮かんだ。その自分は、温かく見守られているのか、査定を受けているのか、定かではない。
和樹は、帰りも再び田崎氏運転の車で自宅まで送ってもらった。田崎氏が「家の人と顔を会わせると却ってご迷惑だから、ここで失礼させていただくよ。」と言い、涼矢も車から降りることなくそのまま別れることになった。
結局、涼矢に会うには会えたが、キスはおろか手を握ることも、二人きりで言葉を交わすことすらできないままに終わるのか。そんなことを思いながら、和樹が車のドアを開け、降りようとした時、「ああ、そうだ、これ。」と涼矢がホテルの名の入った紙袋を渡してきた。受け取る瞬間にわずかに指先が触れ合った。ハッとして涼矢を見る。涼矢の目も切なそうに何か訴えていたが、口にしたのは「ご家族に。お土産。」という事務的な言葉だった。
「大したものではないけれど、都倉くんをお借りしたお礼に、どうぞ。」と田崎氏が補足した。
「いえ、そんなのいただけないです。」和樹はいったん受け取った紙袋を戻そうとした。
「いやいや、私の顔を立てると思って、頼むから受け取ってください。」田崎氏はまた穏やかながらノーとは言わせない圧力を発しながら言い、和樹はお礼を言って受け取ることとなった。
走り去る車が見えなくなるまで見送って、和樹は帰宅した。案の定、ディナーの費用が不明であることや、お土産までもらって帰ってきたことについて、恵にあれこれ言われたが、お土産の焼き菓子が恵の好物だったことで、最後には「田崎くんとは末永く仲良くできるといいわね」というエールを送られた。
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