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第102話 ピアス①
自室に戻ってぼんやりする。まさにぼんやりとしか言えない状態だった。和樹はどちらかというと「何をするでもなく、何か必死に思案するでもなく、ボーッと過ごす」というのは苦手な性質だが、涼矢の父親からの突然の誘いに振り回されたこの夜は、どこか現実味に欠けていて、茫然とするほかなかったのだった。
そんな時、涼矢から電話が来た。
「今日は、ごめんな。急にこんなことになって。」
「いや、あんなに高級でうまいもの、初めて食べたよ。お父さんは?」
「今、風呂に入ってる。明日の朝帰るって。」
「そうか。あのお菓子も、おふくろ喜んでた。」
「よかった。」
「あ、それで、なんかお礼を送りたいから住所聞けって言われてたんだった。」
そんなのいいよ、と固辞されるかと思いきや、涼矢はあっさりと住所を教えてきた。その上、和樹が切りだす前に、父親は異動の可能性があるから自宅あてで、ということまで伝えてきた。涼矢はこういった「大人の付き合い」に慣れているのかもしれない。
「この住所に、合鍵も送ればいいんだな?」と和樹が言う。
一瞬の間の後、「うん。」という返事。
「なんかさ。涼矢に今すぐ会いたいよ。さっきまで会ってたけど。」
「あんまりしゃべれなかったしな。」
「俺、めちゃくちゃ緊張してたし。大丈夫だったのかな。嫌われてない?」
「親父とは、あの後、ほとんど会話してない。ま、嫌われてはないんじゃないかな。あの人の考えてることは俺にもよくわからないから、何とも言えないけど。」
息子がそう言うなら、俺には余計わかるわけがない。和樹は、田崎氏の、あの柔和な、でも感情の読み取れない笑顔を思い浮かべた。
「明日、行っていい?」
「うん。なるべく早く来て。親父は朝イチに出て行くし、おふくろもいないから。俺、今、和樹成分が足りない。」
「なんだそれ。」笑いながらも、少し浮かれる和樹。
電話を切った後も、ウキウキした気分は持続していた。涼矢と短い会話をしただけで、ぼんやりとした夜が、急にくっきりと色づいてくる。
一夜明けて、和樹は卒業して以降、もっとも早く起きた。それでも家族の中では一番遅かったようで、ダイニングキッチンではもう既に和樹以外での朝食が始まっていた。この日は土曜日で、父も兄もいる。
「おや、早いね、珍しい。」と宏樹が茶化した。和樹はそれを無視して、自分でトーストを焼き始めた。
「和樹もハムエッグ、食べる?」と恵が言う。
「食べる。」
「カズ、おまえ昨日、Zホテルのフレンチ行ったんだってな。」と宏樹が言った。恵が昨日のことを教えたのだろう。
「うん。」
「いいなあ。俺、一生あんなとこでご飯食べられないよ。」
「俺だってあそこは一回しか行ったことないぞ。それも会社のパーティーで立食だったからなあ、着席のフルコースなんてとても。美味かったか?」
「うん。」
「つまんない子ねえ、どういうのが出たとか、何が一番美味しかったとか、言ってよ。」と恵までもが言いだした。
「肉とか魚とかチーズが出た。全部美味かった。」
「もう!」恵は苦笑いした。「それでね、お土産までいただいたのよ。私ここのダックワーズとフィナンシェ、大好きなの。後で食べましょうね。和樹抜きで。」最後の一言を強調して言う。
「どうぞどうぞ。」和樹は笑いながら言った。
「田崎くん、お父様も立派な方だったわねえ。さすが弁護士さんよねえ。」恵がうっとりとした顔をしたので、隆志が不機嫌になる。
「弁護士はお母さん。お父さんは検事。」
「お母さんが弁護士? はぁ、それはまたすごいね。」母親のことを持ちだすと、今度は隆志のほうが元気になり、恵がムッとした。
「そういやあいつ、美人だって言ってたよ、母さんのこと。」
「やだあ、こんなおばさんに。」和樹の適切な判断により恵が上機嫌になったところで、男三人はほっとする。
なるべく早く来い、と涼矢は言っていたが、鵜呑みにしていいんだろうか。朝食を終えて、歯磨きをしながら和樹は考える。まだ8時を回ったばかりだ。いくらなんでも9時前の訪問は早すぎるだろう、小学生の夏休みじゃあるまいし。
小学生か。あの頃は良かったなぁ。明日のことなんか考えないで、毎日日が暮れるまで友達と遊び回って、スイミングがんばって、たまに兄貴とケンカして。でも、兄貴はもうその頃には柔道やってたから、きっと手加減してくれてたんだろうな。昔から兄貴はそういうところがあった。自分がそんな風に後先考えずに遊んでいた頃、涼矢は何をしていただろう。小柄で、女の子と見紛う可愛らしい顔立ちをしていたと、昨日田崎氏は言っていた。それは親の欲目ではなく実際そうだったのだろうと思う。でも、考えようによっては、涼矢が一番辛かったのがその頃だ。
俺に、涼矢のその傷を癒してやる力はあるんだろうか。今からでも、埋めてやることはできるんだろうか。好きだと伝えて、体を重ねることは、一時的な癒しぐらいにはなっているかもしれない。でも、もっと確実な何かを、あいつに与えてやりたい。もうすぐ、簡単には会えなくなるのだから、尚更。
そんなことを考えているうちにようやく9時を過ぎた。和樹はそれでも早過ぎのような気がして涼矢に確認するが、なんのことはない、今すぐ来いとせかされて、自転車を飛ばす。
インターフォンで来訪を告げると返事より先にドアが開いて、涼矢が出迎えてくれた。靴も脱がないうちから抱きつかれて、キスをした。
「熱烈歓迎だな。」
「うん。」涼矢は抱きついたままだ。「和樹成分、補充。」と言って、頬をこすり合わせてきた。
なんだこの、デレデレぶりは。こんな涼矢は初めてだ。ようやく涼矢が離れてくれたので、そこからやっと靴を脱ぐことができた。
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