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第115話 カウントダウン⑧

「なんだよ、偉そうに。」 「小学生みたいな文句を言うな。あのねえ、おまえの言う佐江子さんと親父は籍入れてないんだよ。別姓結婚してんの。佐江子さんの実家のこととか仕事の上のキャリアのこととか、いろいろあって。俺んちの表札、ちゃんと見てみろよ、田崎と深沢って二つ表札出てる。深沢が佐江子さんの姓な。そういうこと実践するのに、東京ならともかく、こんな田舎でどれだけ苦労してると思ってるんだよ。俺はそういうのずっと見てきてんの。佐江子さんがゲイのことに理解があるのだって、そういうことと無関係じゃないんだよ。」  ぐうの音も出ないとはこのことだ。和樹はただうなだれて、黙って聞くしかできなかった。 「嫁だの結婚だの、冗談で言ってるのはわかるし、ある程度はつきあうけどさ、それで済まされない時もあるから。本気で俺とつきあってくれるって言うなら、そういうこと、知っておいて。」 「それは……そうかもしれないけど……俺はいろいろ知らなかったのは事実だけど……でも……」 「でも、なんだよ。」 「もうちょっと優しく教えてくれてもいいと思う。」  和樹のその言葉は涼矢にとっては予想外の反応だったようで、びっくりした表情で言葉を詰まらせた。そして、その数秒後には声を出して笑った。「悪い、ごめん。知らなくて当然だよな。俺がそんなことにこだわってるのは、うちが特殊事情だからなんだし。おまえの、『佐江子さん』ってのが、衝撃的すぎて、ついエキサイトした。」 「もう呼ばないよ。よその子だからな。」 「すねるなよ。」涼矢は和樹の背後に立ち、後ろから抱いた。「ごめんって。」 「俺が物知らずで考えなしだったのが悪い。」 「怒らないで。」 「怒ってない。」和樹は涼矢の手に自分の手を重ねた。「怒って見えるんだとしたら、俺自身に対してだよ。そういうこと、ちゃんと考えてない俺が悪い。ふつうのカップルより、もっとちゃんと考えないといけないのに。」 「ん。でも、今すぐ答えを出す必要もない。いつか向き合わないといけない時は来るだろうけど、その日が来るまで、一緒に考えよ。その頃には、法律がバーンと変わって、同性婚だってできるようになっているかもしれないんだし。」 「涼矢がバーンと変えてくれるんだよな。」 「弁護士には立法権はないので……。」 「はいはい。」和樹は笑って、涼矢を振り返り耳元にキスをした。「いつか来る日のために、一緒に考えようって言ってくれただけで、充分嬉しい。前のおまえだったら、どうせ無理って、勝手に身を引くような真似しただろ? おまえの思い描いている未来に、俺がいるなら、それでいいや。」  涼矢は和樹の頬に手を当て、少しはにかんだように微笑んだかと思うと、その頬に軽くキスをした。そして、和樹から離れて再び椅子に座った。和樹は今度は向かいではなく、その隣に座る。 「それで、返事してなかったけど。おふくろ、今日は早く帰ると思うんだ。ていうか、もうそろそろ。6時とか7時とか。」 「このままいたら、夕食でもご一緒にってことになる?」 「なるだろうな。」 「……帰る。」 「だよね。」 「帰ってチャリ整備しとくわ。明日に備えて。」 「ん。」 「出発は10時ぐらい?」 「そだね。で、2時間走ったところで飯食って。」 「あとは行先次第だな。」 「うん。」  涼矢は和樹を玄関まで見送る。靴を履いた和樹が涼矢のほうに向きなおると、それが当然であるかのように涼矢が和樹に顔を寄せ、二人はキスをした。 「行ってらっしゃいのチューみたいだな。」和樹が言い、涼矢がクスッと笑った。  和樹は門扉の近くに置いておいた自転車の向きを変えつつ、表札を改めて見てみた。田崎と書かれたオーソドックスな表札の隣に、確かに「Fukasawa」という文字の入ったアイアンのプレートがついている。更によく見ればそれぞれの下に個別に郵便受けもあった。対等に肩を並べた位置に、それぞれの個性を主張した表札。涼矢の両親の矜持がそこにあるようだった。

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