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第116話 Sunrise,Sunset ①

 和樹が家に帰るなり、恵が「きゃっ」と声を上げた。「和樹、あなた何、その、その。」指差す方向は、和樹の耳だ。 「ピアス。」 「どうしてよ、男の子なのに。」 「今時、男でピアスなんて珍しくとも何ともないよ。」 「就職の時に困るでしょ。」 「話が飛ぶなあ。その時は外せばいいだけだろ。」和樹は自室に行って荷物を置いたり、トイレに行ったりして、再び恵のいるダイニングキッチンに戻った。その間に、考えた。就職の時に困る。そうかもしれない。でも、その時は外せばいい。これも本心。もしピアスができない職場に就いたなら、ピアスをやめればいい。ピアスホールなんてそのうち塞がる。心の中でどこかそんな風に気楽に考えていた自分に気づく。「確かなものを涼矢に与えたい」「形のあるものを」そう思って、ピアスにしたのに。「やめればいい、塞げばいい」って、なんだ、それ。かといって、そこまで覚悟を決めたものでもない。たとえばお互いの名前のタトゥーを刻みつけるとか、そういう意味での永続的な確かさを求めていたわけではない。  俺は、約束してやりたかっただけだ。俺があいつから離れないって。  約束して、あいつを安心させたかった。  その証を、あいつの手元に残してやりたかった。それだけ。  それが指輪でもペンダントでも、不適切な場なら外すわけで、涼矢だって本物の弁護士になった暁にはピアスは外すだろう。ピアスをした男性弁護士ってのは、やっぱり、まだ一般的ではないだろうし、信用問題に関わりそうだ。だから、もし涼矢がその時そうしたとしても俺は気にしない。だったら、俺がお堅い職場に就職した時にはピアスをやめる、それだって常識的な判断だし、涼矢だって不愉快になんて思わないはずだ。  そんなことを考えながら、恵を見た。恵は夕食の支度を始めていて、ピアスの件については、もう何も言うつもりはないようだ。和樹は面倒事をひとつ回避できたと思い、ほっとする。  たかがピアス。  そんなものひとつ身につけるのにどうして理由が必要なんだろう。常識とか、信用とか、男の子なのにとか、考えなくちゃいけないんだろう。どうだっていいじゃないか。何か問題が起きたとしたって、その時はその時だし、なるようにしかならないさ。  でも、そうやって適当にかわしていることのしっぺがえしが、いつか来るのかもしれない。嫁だの籍だのといった俺の安易な軽口が、涼矢を傷つけたり、苛立たせたりしたように。俺はきっと、いろいろなことをもっときちんと考えなくてはいけないんだろう。  和樹が押し黙っていると、恵が「具合悪いの?」と声をかけてきた。 「いや、全然。」 「それならいいけど。あのね、そういえば今日、前の家のお隣の……」恵は、この町に引っ越す前に住んでいた社宅の隣家のおばさんが、和樹の上京を知ってわざわざ餞別を送ってきてくれた話を始めた。幼少期には可愛がってもらった覚えがある。和樹一人で留守番しないといけないような時には預かってくれたりもした。  翌日。  涼矢と和樹が出発してから、もうすぐ一時間半ほどが経過しようとしていた。そのうちのここ20分ほどは、山道とまでは言わないが、ゆるやかな長い上り坂を自転車で登っていた。平均以上には体力のある二人だが、さすがに息が乱れてくる。 「なあ、これ、どこに向かってるんだ。」と和樹が少し前を行く涼矢に尋ねた。 「このまままっすぐ行ってひと山越えればK町に出るけど、そこまで行くと帰りが大変だから。」 「涼矢的には、目的地はあるのかよ。」 「うーん、そうだね……。」曖昧な言葉しか返ってこない。「あと30分、こんな感じだと思ってて。」 「きっつー。」 「水分補給は忘れずに。」 「ああ。」和樹はホルダーのスポーツドリンクを取り、飲んだ。  そして、ちょうどきっかり30分後、涼矢がペダルを漕ぐ足を止めた。 「あのへんに停めよう。」涼矢は、路肩のスペースを指す。  道路は整備されているが、その周りはほぼ森林というか雑木林で、それ以外には何もない。言われるままに、和樹は涼矢の自転車の隣に自分の自転車を置いた。 「ここからは、ちょっとだけ歩き。」 「来たことあるの?」 「ない。」 「なんで知ってるの。」 「ネットで見た。」そこは道と言えば道だが、自然にできた道のようで、舗装も整備もされていない。  ほんの5分も歩くと、急に視界が開けた。  眼下には、今登ってきた道と、街並みが。  そして、顔を上げれば、遠くに、海が。 「うわ。」和樹は驚嘆の声を上げる。「ここからこんな景色が見えるって、ネットで調べたの?」 「え……まあ、うん。昨日、和樹が、海、いいなって言ってたから。」涼矢が照れくさそうに笑う。「海に連れて行きたかったけど、浜辺まで行くのは時間的に無理だから。でも、見るだけならなんとかなるかなって。」  和樹は喜びのあまり絶句してしまう。 「でも、本当にそんな都合よく見えるかどうか半信半疑だったし、ぬかよろこびさせても悪いと思ったからさ、きちんと説明できなくて、ごめん。」涼矢も海のほうに目をやる。 「涼矢。」和樹は涼矢に抱きついた。「すっげえ嬉しい。」それから更に行けるギリギリのところまで進み、踏み台になりそうな石の上に立って、見渡した。

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