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第119話 Sunrise,Sunset ④

 二人は小一時間ほどその場で過ごし、帰途につくことにした。来た道を戻るほうが近いが、せっかくだからと別の下りルートを選んだ。その道は車はほとんど通る様子がなく、二人はのんびりと並走した。 「なあ、涼矢。」 「ん?」 「変なこと聞くけどさぁ、そういうことがあって、海なんかもう見たくないって、思ったりしない?」自分の何気ない一言のために、涼矢はわざわざ海が見える地に連れてきてくれた。それは嬉しい限りだが、だからといって、それが涼矢にとって多少なりとも痛みを伴うものであってはならない、と和樹は思っていた。 「全然。」 「そうなんだ。」 「その時だって、さっきも言ったけど、海の水がすごく気持ちが良くてさ。俺、基本的に水の中が好きなんだよ。海でも、プールでも。温泉なんかも好きだしなあ。」 「ラブホの風呂とか。」 「いやいや、泳げるぐらいのスペースがあるとこな。」 「温泉は泳げないだろ。」 「え、大浴場で、誰もいなかったら泳ぐだろ?」 「小学生かよ。……あっ、涼、ちょっと、あれ見ろよ!」和樹は少し先にある、古びた建物を示した。「ナイスなタイミング。」 「お、日帰り温泉?」そこは、地元の常連客向けと思われる、ちっぽけな施設だが、文字の消えかかった看板は確かにそう書いてある。 「寄ってこうよ、汗かいたし、足疲れたし、ちょうどいい。」 「パンツない。」 「履いてるだろ。」 「風呂上がりはパンツ替えたい派なんだよ。」 「めんどくせえやつだな、じゃあ俺が今履いてるのと替えてやろうか?」 「い・や・だ。」 「中で売ってるかもよ。」 「ここって地元のお年寄り向けのとこだろ、ないんじゃないかなあ。」  そうこう言ってるうちに、その施設の前に着いた。 「どうするよ。」和樹が確認した。 「今履いてるやつで我慢するよ。ただ……。」 「何だよ、まだ何かあるのかよ。」 「昨日、結構、その、和樹にね、跡をつけたような気がする。」涼矢は和樹から顔をそらすように、そそくさと自転車を停める作業を始めた。 「なっ。」和樹は反射的にシャツをめくり、自分の腹のあたりを見た。特にそれらしきものは見えないが、全身にないとは限らない。「もう、いいよ。この時間じゃ他の客少ないだろうし、いてもどうせじいさんだろ。気にしない気にしない。」  施設内に入ると、外観の印象よりはきれいだった。だが、やはり地元の常連客をあてにしたところのようで、あるのは大浴場とサウナのみ、今時のスパやスーパー銭湯のような、エステサロンや岩盤浴、レストランといった付帯サービスはない。 「足、パンッパン。」そう言いながら、和樹は浴場に入る。続いて涼矢も。涼矢はさりげなく和樹の体をチェックし、いくつかの痣のようなものを見つけた。だが、先客は予想通りお年寄りが二人だけだ。彼らが和樹の痣に気がつくとは思えなかったし、仮に気付いてもそれと結びつけて考えることはないだろうと勝手に解釈してホッとする。  二人は軽く体を洗いながすと、湯船につかった。ぷはあ、と思わず同時に息を吐き、親父くさいと笑い合う。 「さっきの話だけど、俺も、水の中って好きだなあ。」和樹が湯船の壁にもたれながら話しだした。 「うん、気持ちいいよね。ふわふわして。」涼矢もその隣に並んで足を伸ばした。 「俺ねえ、胎内記憶があるんだよ。」 「何、それ。」 「母親のおなかの中にいた時の記憶。あったかい水の中で、体を丸めて浮いてる感じを覚えてるんだ。周りはオレンジ色っぽくて。水の中にいると、それを思い出す時がある。」 「へえ。おもしろいね。」 「うん。だからどうしたって話だけどな。」 「そうかな。良い話だと思うけど。思い出す時、別に嫌な感じはしないわけだろ?」 「どっちかといったら、良い気分だよ。守られている感。」 「お母さんのおなかの中で守られている感じを覚えてるなんて、良い話じゃないですか。」 「そっか。そんな風に思ったことないや。あ、俺、この話、初めて人に話した。」 「お母さんにも?」 「言ってない。」 「言ったら喜ぶんじゃない?」 「……覚えていたら、そのうちね。」  和樹は、さっき聞いた、涼矢の話を思い出していた。『初めて人に話した。その日のことは、おふくろも知らない』。同じ「水の中の記憶」だというのに、同じように「誰にも話したことがない話」なのに、ふたつの話は全然違う方向を向いていた。涼矢の話は、この先も誰に語られることもないのだろう。自分の話は、話すほどものでもないのだろう。重さも全然違う二つの話は、おそらくこの先も二人だけの秘密になるだろう。 「オレンジってのはさ、おなかの中だからなのかな。」涼矢が言った。 「そうなんだろうな。明るくはない。薄暗い。夕方みたい。でも落ち着くの。」 「夕焼けを見て、なんか落ち着くような淋しいような気持ちになるのは、そういうのと関係するのかなあ。」 「ロマンチストだね。」 「あの夕陽、もう一回見たいな。今日、またあそこに行かない?」 「いいよ。ここからうちのほうまで戻れば、ちょうどいい時間。」  涼矢がじっと和樹の横顔を見た。和樹がそれに気付いて、何?と言いたげに首をかしげた。 「すっげ、キスしたいけど。」涼矢が小声で言う。先客の老人は一人はサウナに、一人は洗い場でシャンプーをしていた。  和樹のほうから顔を近づけ、素早くキスをした。「こういうのは、タイミングなんだよ。」和樹がニッと笑い、涼矢はただでさえ温泉で紅潮している頬をさらに赤くさせた。 「そろそろ出るか。」と和樹が言う。 「……無理。」 「え? 夕陽、間に合わなくなるぞ。」 「たった今、無理になった。先に出て、五分、いや三分待ってて。」 「じゃあ、俺もあと三分ここにいるよ。」 「それじゃ意味ないだろ!」赤い顔をして、涼矢が言う。 「あ……ああ、そうか。……俺までおかしくなるから、先出るわ。」  涼矢は湯船につかりながら、ひとり、心の中で般若心経を唱えた。

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