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第120話 Sunrise,Sunset ⑤

 往路よりも長い道のりではあったが、下りなので大分楽だった。順調に元の町まで戻ると、そのまま例の雑居ビルを目指す。ビル周辺は人気もなく、静まり返っていた。日曜日だからだろうと思ったが、ビルの正面まで来て、それだけが理由でないことを知った。ビル正面はシャッターが下り、張り紙があった。それには、その地域一帯に再開発計画があり、ビルの取り壊しが決定していることが掲げられていた。ビル取り壊しの予定日として二週間後の日付が記され、雑居ビルに入っていた企業の移転先もリストアップされていた。つまり、もうここには誰もいないし、二週間後にはビル自体が解体されるのだ。 「毎日前を通っていたけど、気がつかなかった。」と和樹が言った。前は通るが大抵自転車だ。いちいち足を止めて見ることはなかった。 「せっかく良いところ教えてもらったのに、残念。屋上には、出られるのかな。」涼矢は前回和樹がそうしていたように、ビルの裏手に回り、外階段を上がり始めた。「逆に考えれば、今日来て良かったかもな。見納めできて。」 「そうだな。」  温泉で癒したとはいえ、自転車を往復四時間ほども漕いだ後に五階分の階段を上るのは、さすがの二人も少々きつく感じたが、それでも屋上までたどりついて空を一望できるようになると、その疲れも吹き飛ぶ思いがした。  そして、夕焼けにはまだ少しだけ早い。二人は柵にもたれて、コンクリートの床にじかに座り込んだ。 「おやつ持ってくればよかったな。」と涼矢。 「おまえ、よく食うな。本当に一人だと食わないの?」 「うん、食べない。和樹といるとさまざまな欲が触発される。食欲もしかり。」 「何が食欲もしかりだよ。主に性欲だろ。」 「だったら何だって言うんだよ。」 「夕陽見たら、どうする。」 「え?」 「この後。」 「今の流れだと、メシ食うよね。」 「その後。」 「何、誘ってるの?」 「おまえが昼に言っただろ、もういいと言うまで体で支払えって。」 「え?……ああ、あれ? あれ有効なんだ?」 「有効だよ。何したいわけ? 食欲が満たされた後は。」 「おまえは俺に何を言わせようとしてるんだよ。」 「わからない? わかるよね? 言ってよ。ホレホレ。」 「馬鹿だろ、おまえ。」 「涼矢くん、口悪っ。好きな子はいじめたいタイプ?」  涼矢は和樹を真顔で凝視した。「好きな子をいじめたいタイプかどうか、知らなかったっけ?」 「やべ、おまえ、ガチのサドだった。」 「そんなこと言ってると、本当にやっちゃうよ?」 「やっちゃってから言うなよ。」 「やってねえし。」 「やっただろ!」 「あんなのやった内に入らねえよ。」 「うっわー、涼矢、ひどっ、俺にあんなことしておいて、ひどっ。」 「なあ、ほら、そろそろきれいなお空になるよ。そういう発言はやめて、心清らかに美しい夕陽を見ようよ。」  涼矢は立ち上がり、西の空を見た。和樹も渋々それに倣う。  西に沈みゆく太陽。それを眺める涼矢の横顔。肌に夕日が照り映えている。写真家がこの一瞬を見逃すまいと構えているように、落日をその目に焼き付けているのがわかる。この美しさを、そして、それを二人でここから見ることができる最後のこの時を、永遠に忘れまいとしているかのように。 「涼矢って、横顔、きれいだよね。」和樹は涼矢の前髪を上げながら言う。 「言われたことないけど。」涼矢は夕陽から目をそらさずに言う。 「そんなに見つめてたら、目、悪くするよ。」 「そうだな。」涼矢は一度ぎゅっと強めに目をつぶってから、和樹のほうを見た。 「鼻筋が通ってるんだな。お父さんに似てるよ、横顔。正面だとそうでもないんだけど。」 「正面顔はイマイチ? ま、和樹さんにかかれば、大抵の人はイマイチだよねえ。」 「そんなことないよ。」 「そうとしか言えないよな。」 「俺には世界一の良い男に見えるよ。」 「よく言うよ。」涼矢はまた夕陽のほうに目をやった。もう、ほぼ沈んでしまっていて、眩しくはない。 「本当だって。」和樹は涼矢の肩に腕をまわす。 「くっつくな。」 「やっぱり、人目が気になる?」 「おまえん家の近くだし。」 「そうだな、誰が見てるかわかんねえもんな。」そう言いつつも、手をどける気配はない。 「あ、沈む。」わずかにゆらゆらとした光を放っていた太陽がついに完全に没した。「はあ。やっぱりいいよね、夕陽。」 「そのうち、朝焼けも一緒に見ような。」 「え。」涼矢が和樹を見る。 「俺の部屋は東南の角部屋だから、きっと見えるよ。まあ、ここよりずっとビルとか多いから、こんなきれいには見えないだろうけど。」和樹はにこにこと涼矢を見つめる。「二人で一緒に迎える朝だよ、想像したら、なんか良くない? それでさ、おまえのカップも用意しておくから、コーヒー淹れてよ。」  涼矢ははにかんだように笑った。「ちょっと、楽しみになってきた。」 「だよな。」 「朝焼けが見えるぐらい、早起きしなきゃだな。」 「ああ、それは難関だなあ。夜、ろくに寝ないわけだし。……だろ?」 「寝なきゃいいんだ。」 「激しいな、涼矢くんは。」和樹がははっと笑う。 「暗くなったから、降りようか。」肩にある和樹の手を取り、涼矢が体の向きを変えた。そのまま和樹の手を握り、歩きだす。和樹もそれをきゅっと握り返した。

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