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第122話 Orange sky , Blue sea ②

「ね、いっぱい食べてね。こっちに中トロもあるわよ、届く? 大葉と一緒に巻いても美味しいわよ。巻いてあげようか?」 「だ、大丈夫です。」 「母さん、構い過ぎ。手巻き寿司ぐらい、自分で」言いかけた和樹の視線の先の、涼矢の「作品」は、海苔がうまく巻き切れずに無残な状態になったかっぱ巻きだった。「涼矢のくせに、なんとも、ボロボロだな。」 「……手巻き寿司って初めてで。」 「ええっ。」と都倉家の三人が驚愕の声を上げた。 「いや、失礼。そういうご家庭があっても不思議ではないよな、うん。」と宏樹が言った。 「一人とか、母と二人で手巻き寿司……ということには、なかなかならないし……。父は寿司が食べたいなら寿司屋に行くのが当然という人で。」 「回ってないんだろうなあ、それ。」と和樹が言う。 「回って……?」 「回転寿司も行ったことないの?」 「ああ、それか。あるよ、ほら、新人戦の後に先生が連れてってくれたことあるだろ。あの時。」 「あの時だけ?」 「……えっと……そう、かな。」 「ごめんね、宏樹、和樹。」恵がしょんぼりした。 「すみません、俺、変なこと言いました? 言ったんですよね?」 「いや、涼矢が謝る必要はまったくない。気にするな。」と宏樹が言った。 「は? "涼矢"?」和樹が反応した。 「うちの子だから、いいだろ。もう俺の弟だ。出来の良い弟ができて兄ちゃん嬉しい。」 「私も出来の良い息子ができて、嬉しい。」 「母さんまで!!」 「ふふ、これで淋しくないわ。和樹は安心して東京に行きなさい。」恵は笑ったが、その目尻には、ほんの少しだけ涙がにじんでいた。そして、それを誤魔化すように「はいはい、可愛い息子達、たくさん食べて食べて。」と、大袈裟なアクション付きで言った。  食事が済むと涼矢は恵に後片付けを申し出たが、恵に固辞され、再び和樹の部屋に行った。 「もう、なんなんだよ、兄貴も、おふくろも。」和樹はぶつぶつと文句を言う。 「俺は嬉しかったけど。」 「特に兄貴! 俺が涼矢を涼矢と呼べるまでに、どれだけ苦労したか!」 「苦労なんか別にしてねえだろ。」涼矢は呆れたように言った。 「だって俺、超ショックだったよ。俺以外はおまえのこと涼矢って呼んでるって知った時。」 「俺はおまえがそのことにまるで気付いていなかったことがショックだったよ。」  和樹は言葉に詰まった。涼矢のことを長らく苗字で呼んでいたことに深い意味はなかった。強いて言えば、入学当初のお互いの名前を覚える時期に、名簿順が前後している関係で苗字の印象が強かったこと、それ以降は水泳部でライバル視していたことが挙げられるが、それもそんなに強く意識していたものではなかった。要は大して涼矢に興味がなく、とりたてて親しくなろうとも思っていなかったのだ。 「涼矢くん。」 「何。」 「涼ちゃん。」 「だから、何。」 「タサッキー。」 「新しいの来たな。」 「おまえは、どう呼ばれても返事するのか?」 「自分のことを呼んでいると認識できれば、するよ。呼び方なんてなんだっていい。」 「そっか。」 「あ、でも。」涼矢は言いかけて、やめる。顔が赤い。 「なんだよ。」 「……やってる最中に、涼、って呼ばれるのは、なんか、来る。」 「へえ。じゃあ、今から涼って呼ぶ。」 「違うんだよ、その、そういう時の、切羽詰まった感がいいの。涼矢の矢ぁすら呼ぶ余裕ない感じが。」 「さすが変態はこだわるところが違う。」  涼矢はそれには反応せず、真顔でぼそりと「都倉。」と言った。 「……。」和樹は顔をしかめた。そんな涼矢は、告白以前を嫌でも思い出させた。無愛想で、無表情の涼矢。「なんか変。すっげぇ、変。」 「都倉。」涼矢は和樹の両肩に手を置いた。そして、顔を傾けて、キスをした。 「うわぁ。」和樹のほうが顔を真っ赤にした。「何これ。すげえ、変な感じ。」 「うん、なんだろうな、これ。……都倉。」もう一度キスをした。「すごく悪いことしてる気がする。」 「え、そう? 俺は、初デートの時思い出して……緊張するっつうか。」 「俺は……俺のことを全然そういう目で見てないピュアな頃の和樹に、いかがわしいことをして穢している気分、とでも言えばいいのだろうか……。」 「文学的に言ってるけど、内容は結構最低だな。それから、俺は今でもピュアだ。」 「どこがピュア?」 「俺は純粋におまえのこと、好きだから。」 「だったら俺だってピュアだ。」 「絶対違う。なんか違う。」 「ひどいな。……和樹。」今度はディープキス。和樹もそれを予測していたように、すぐにそれに応えた。  唇を離すと、涼矢は「また生殺しになっちゃう。本当に、今日は、もう帰るから。」と言った。 「ああ。わかったよ。俺を一人残して帰れよ。おまえがもういいと言うまで付き合う気でいた健気な俺を」 「そのぐらいで勘弁して。」涼矢は和樹にキスをして口を塞いだ。「この埋め合わせは明日するから。」 「明日しかないんだから、せいぜいがんばってくれ。」上京前の"最後の一日"であることを、和樹はあえて軽やかに告げた。 「全力を尽くすよ。」涼矢は少し淋しげに微笑むと、和樹の指先を一瞬握った。「じゃ、明日。」 「うん。」

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