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第129話 光射す、その先の。①
和樹はコーヒーの最後の一口を飲み干して、何の気になしに、ダイニングから続くリビングのほうに目をやった。ピアノが目に入った。
「涼矢、ピアノ弾けるんだろ。聴かせてよ。」
「え、やだよ。丸三年触ってない。」
「いいよ、なんでも。簡単に弾ける曲で。猫ふんじゃったでも。」
「簡単に弾ける曲なんてないから。猫ふんじゃったは習わないし、弾いたことないから弾けない。」
「チューリップでもちょうちょでもいいからさ。」
涼矢は嫌々ながらもピアノに向かい、そのすぐ脇に和樹が立った。丸三年触れられていない割に、ピアノは埃をかぶっている感じもしない。部屋のきれいさからしても、もしかしたら佐江子は料理の才覚こそなけれど、掃除の類は得意なのかもしれなかった。
椅子に座ると、涼矢はピアノ下の、楽譜用と思われる小さな棚を探り、曲を選び始めた。
「わざわざ楽譜見るほど難しい曲じゃなくてもいいって。」
「悪かったな、譜面ないと弾けないんだよ。耳コピできないの、俺。」
「そういうもんなの?」
「ジャズやポップスが得意な人は違うんだろうけど、クラシックは基本的に譜面どおりに弾くのがセオリーだし。」
そう言いながら、涼矢はある譜面を開いて、弾き始めた。
「おっ。」
「いや、まだ指慣らし。」涼矢はスケールを弾いた。「はあ、やっぱ全然指動かねえ。」涼矢は心底忌々しそうにため息をつく。
「充分、すげえと思ってるけど……。」
「ドレミファソって弾いてるだけ。」しゃべりながらも、涼矢の長い指が鍵盤の上を移動していく。
「手、でかいな。」
「うん。そこだけはピアノの先生にも羨ましがられた。小柄な女の先生で、手が大きいほうがピアノには得だから向いてるよって。俺、体が小さくて悩んでた時でも、手と足だけは大きくて。……カテキョの先生にも、だからそのうちデカくなるから安心しろって、言われてたな。」涼矢はそう言って、指を止めた。「恵まれたんだな、俺。自分一人が不幸な気がしてたけど、周りの先生とか、そうやって、励ましてくれてた。」
「それは、おまえがいつも一生懸命だったからだよ。」
涼矢はそれには答えず、少し微笑んだだけだった。それからひとつ深呼吸をすると、今度こそ曲を弾き始めた。
美しい旋律。クラシック曲など音楽の授業以上の知識のない和樹も、聞き覚えのある曲だった。おそらく曲の途中だろうが、涼矢はフェイドアウトで弾くのをやめた。
「このへんまでしか無理。難しい。」
「今の、なんて曲? ショパンのなんとか?」
「すごい、ヤマカンだろうけど当たってるよ。ショパンのなんとかだよ。」
「きれいだけど、なんかちょっと悲しい感じの曲だな。」
「ショパンの、別れの曲。」
和樹は言葉を失う。
「ああ、でも、別にこれ、別れる時の曲じゃないんだよ。日本で勝手にそう呼ばれてるだけで。」
「もうちょっと景気良い曲お願いします。マジで淋しくなるんで。」
「景気良い曲、ね……。」
和樹はまた別の楽譜を出し、弾き始める。確かに冒頭から華やかだ。これにも聞き覚えがあった。さっきよりもさらに短いところで、涼矢の指が止まる。
「無理。これ以上自分の音で聴きたくない。曲に対する冒涜だ。」涼矢は肩を落とす。
「ちなみになんて曲?」
「英雄ポロネーズ。ショパン。」
「ショパンさんすごいな。」
「当たり前だろ。」涼矢は背筋を伸ばし、今度はまた別の曲を弾き始めた。
「……あれ?」
「これは知ってるだろ?」涼矢は楽譜を見ずに弾いている。
「……楽譜なくても弾ける曲あるじゃないか。」
「適当だけどな。景気良く。」
涼矢が弾いたのは、ディープ・パープルのBurnだった。
「なんで弾けるの。」
「文化祭で軽音楽部のヘルプで弾いた。」
「おまえ意外なところで活躍してるね。援団とか軽音とか。」
「はは。」これは最後まで弾き切った。
「ブラボー。」和樹は拍手した。
「このぐらいでいい?」
「サンキュ。すげえカッコよかった。」
「光栄です。」涼矢は楽譜をしまい、ピアノの蓋を閉じた。「はい、では、食休み終了。」涼矢は和樹をちらりと見る。「来て。」
涼矢の部屋に向かうための階段を上りながら思う。
この階段を上がるのも、もしかしたらこれが最後になるのかな。階段を登り切ったところで涼矢を抱きすくめてキスして、もう後はない、進むしかない、と言ったことがあった。その通りになった。あの時から、俺たちはただ夢中になって進んで、ここまで来た。少しぐらい離れても大丈夫だと思えるところまで来た。何の確約もなくても、保証がなくても、ピアス一個でつながってるだけでも、もう、俺は涼矢の気持ちを疑ったりしないし、不安にもならない。涼矢も同じ気持ちでいてくれればいいけれど。涼矢の体も心も俺のものにならなくていい、ただ、俺と同じ気持ちでいてほしい。どうしたらいい?と聞けば、きっと涼矢は答えるんだ。『何もしなくていい』って。でも、それは違うと思う。俺は涼矢に、伝え続けるんだ。好きだって。俺がかつて涼矢にそれを求めたように。涼矢は俺を好きだと言い続けてくれた。だから今度は俺が伝えるんだ。言葉で。態度で。体で。
部屋に入る。ぐるっと見渡す。最初訪れた時と印象は変わらない、殺風景なほどシンプルな部屋。ここに初めて来たその日に、告白された。初めてのキスもした。幾度も体を重ねた。
「どうした?」涼矢が声をかけてきた。
「結局、新刊、読んでないや。」ふいに、涼矢に貸してもらう約束をしていたバスケ漫画のことを思い出した。
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