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最終話 茜色の空 紺碧の海
『淋しいよ、和樹』
頭の中でリピートされる涼矢の声。
淋しいよ。
当り前だろう。
俺だってそうだ。
淋しいよ。
離れてても大丈夫って思ってるけど、すぐそこにあの体温がないなんて、淋しくて仕方がない。
和樹は家に着くと、自室に直行した。
「ちょっと和樹。帰ってきたの?」恵の声がドア越しにも聞こえる。
……だめだ。ここじゃ泣けない。
下着と着替えを手に、浴室に向かう。それに気づいた恵が「ただいまぐらい言いなさいよ。」と言い、それにかぶせ気味に「ただいま。」と和樹が言うと、恵はムッとしながらもそれ以上言わなかった。
お風呂はちゃんと沸いていた。いつ帰ってくるかもわからない和樹のために、恵が用意していたのだろう。和樹はシャワーの湯を最大限に強く出した。強い水圧で髪と体を一気に洗うと、シャワーを流しっぱなしのまま、バスタブに入った。バスタブの中で膝を抱え、その膝頭に突っ伏した。
ほどなくして、和樹の嗚咽が漏れてきたが、その声はシャワーの音でかき消された。
それから和樹はもう一度強い水圧のシャワーを浴び、顔を何度も洗ってから、浴室を出た。
「さっき、ごめん。」和樹はキッチンの恵に謝った。
「……いいけど。どうかしたの?」恵の眉間の皺が、怒りから心配へと変わる。
「別に。」
「ごはんは済ませたのよね? お茶でも飲む?」
「うん。……あと、何か軽いものあったら、食べる。」食べる、という言葉を聞いて恵は安堵した様子だ。「食欲があるなら大丈夫」というのが、恵の基本方針だ。もっとも、世の母親の大半がそういうものかもしれない。
「軽いものねぇ。ごはんは少し残ってるから、おにぎりにでもしようか。」
「うん。」
恵はお茶と、おにぎりを和樹の前に置いた。俵型のを三個。恵のおにぎりはいつも俵型だ。涼矢のおにぎりは基本的に三角形で、おかかチーズだけが丸かった。和樹はもそもそとおにぎりを食べた。恵は、何も言わずにその様子を眺めながらお茶を飲んでいたが、途中ですっと席を立った。「明日は早いから、私はもう休ませてもらうわ。和樹もそれ食べて歯磨きしたら、寝なさいね。お皿はシンクに置いておいて。」
「ああ。ありがと。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
恵もまた、淋しさに耐えきれなくなって、早々に退散したのかもしれなかった。
和樹は食べ終わると、お皿と湯のみを洗った。
翌朝。和樹はボストンバックを担いで、宏樹と電車に揺られていた。新幹線に乗るには、まずは在来線でQ駅まで行かなければならない。ボストンバッグには例の涼矢のCGイラストを納めたファイルも入っている。
早朝の自宅では、和樹はなんとか父親と挨拶を交わせた。「行ってきます。」「体に気をつけてな。」程度の会話ではあったが。恵とは忘れものがないかの確認に終始した。宏樹とは「おはよう」ぐらいだ。
「まあ、別に東京ったって、二時間やそこらだからな。会社員ならふつうに日帰り出張だ。へたしたら通勤している人もいるんじゃないか。」ようやく挨拶以上の言葉が、宏樹から出てきた。
「そうだね。」
「俺も遊びに行くよ。」
「うん。」
「……デートの邪魔かな。」
「そうだな。」
「……。」宏樹のほうが動揺して、押し黙る。
「冗談だよ。」和樹が笑った。「でも、来る時は事前に連絡してよ。」
「いいや、突撃してやる。」
「別にいいけどさ、弟が男と一緒にベッドにいるとこ、見たくねえだろ?」
「おまえなあ。」
「でもま、感謝はしてるよ。」
「何の。」
「兄貴がいなかったら、たぶん俺、あいつとつきあってないもん。告られた段階でゴメンナサイして、終わってた。」
「良かったんだか、なんだかな。」
「良かったんだよ。」和樹は微笑む。「絶対に、良かった。」
「そうか。」
「うん。」
やがてQ駅に着き、二人は新幹線のホームに向かった。
「えーと、車両は……。」宏樹が座席を確認している間、和樹はなにげなく視線を上げた。
その先に、見慣れたシルエットが見えた。
「りょ……。」
涼矢がいた。
照れくさそうに涼矢が手を振った。和樹は走りだすが、大きなボストンバッグが揺れ、あまり早くは走れない。
「どうしたの。」
「来ちゃったよ。」涼矢は至って穏やかな表情をしていた。「どうにか、間に合ったから。」涼矢は持っていた袋から何やら取り出した。クリアホルダーだった。
和樹はそれを受け取ると、ホルダーから中身を引き出した。
「これ……。」
「受け取ってもらえると嬉しい。例の絵と、対になってる、つもり。」
和樹はいったんホルダーを涼矢に戻すと、慌ててボストンバッグからファイルを出した。
あの、宇宙空間のような、海の中のような、深い青の絵。そのページを開く。
「これと、対、だよな。」
「うん。」
涼矢は新たにもらった絵を、その青い絵の隣のページに差し込んだ。
柔らかく温かな色合いの、オレンジ色のグラデーション。その中に、鳥のような、雲のような、あるいは花弁のようにも見える曲線が模様を成している。
「もしかして、寝不足だったのって。」
「はは、バレちゃったな。チャリで海見に行って、夕陽見て、忘れない内にって、あの夜に慌てて作り始めたから。本当は昨日渡したかったんだけど、間に合わなくて。」
「じゃあ、昨日も描いて?」
「ちょっとだけな。」
その時、背後から宏樹の声がした。「先、席行ってるぞ。」と、自分たちが乗るはずの車両を指差した。和樹はうなずいた。涼矢もぺこりと一礼すると、宏樹はニッと笑って、新幹線に乗り込んで行った。
「やべ、今、すげえハグして、キスしたい。」和樹が言った。
「同感だけど、さすがにここじゃな。」
和樹はファイルをもう一度しみじみと眺めた。「いいな。」
「ありがとう。」
「それこっちのセリフ。ありがとな。」
間もなく発車時刻だと知らせる駅のアナウンスが流れてきた。
「あ……。」和樹はその声が流れてくるスピーカーを恨めしそうに見た。
「はい、じゃ、気をつけて。」涼矢が和樹の肩をポンと叩いた。
「……うん。またな。」
「すぐ、会いに行くから。」
「ああ。」
和樹はさっき宏樹が消えて行った乗車口から、乗り込んだ。涼矢はそのギリギリの際までついていく。
「好きだよ。」最後にそっと、涼矢にだけ聞こえるように囁いた。
「うん。俺も。」
一瞬だけ触れる指先。
「お下がりください」というアナウンスに、涼矢は一歩下がり、ドアが閉まる。
車体が動き出す。
映画やドラマなら、ここでホームにいる恋人が電車を追いかけるように走りだすのだろう。
だが、涼矢は別れた場所にじっとたたずんでいて、その姿はあっという間に小さくなった。
涼矢らしい。そう思って、和樹は少しおかしくなる。
もう一度、ファイルを広げて見る。
紺碧の海。よく見れば色とりどりの。涼矢のような。
茜色の空。柔らかく温かな。もしかしたら、涼矢には俺がこう見えているのか? だったら嬉しい。
「きれいな絵だな。」隣の宏樹が言った。「二枚で一対か?」
「うん。」
「だよな。どっちもいいけど、一枚ずつより、二枚並んでるほうが良い。」
和樹の口元に、柔らかく温かな、微笑みが浮かんだ。
(終)
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