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第8話 Tea for two ①
自分たちの関係を暴露されなくて良かった。唯一勘づいたのが口が固くて信頼のおける津々井奏多で良かった。そんな風に思ってしまった自分が、今更涼矢に何を言おうというのか。
和樹は、涼矢を裏切ってしまったような罪悪感にさいなまれた。しかし、その一方で、涼矢にしてもあの状況でカミングアウトしたいとは思っていなかったはずであり、ああいう形で丸く納めることが正解だったはずだ、という気もしていた。
でも、このまま明日を迎えていいのか。あの場であいつと一緒に矢面に立ってやることができなかった。ひとりで立ち去っていくあいつを追いかけて、優しい言葉をかけてやることもできなかった。そんな後悔にじりじりしながら夜を過ごして、明日、どんな顔であいつに会いに行けばいいのか。
声が聞きたい。何を話せばいいかわからないけれど、今はただ、涼矢の声を聞きたかった。電話は苦手と言っていたことは覚えていたが、その気持ちを抑えきれなくなり、和樹は涼矢に電話をかけた。
「涼矢?」
「うん。どうしたの。……なんて、俺だよな。悪いな、あんな風に抜けちゃって。あの後、大丈夫だった?」
「いや、こっちは全然何も……。青野がうまいことまとめてくれたし。それより、俺こそ、なんか、ごめん。」
「何が?」
「涼矢のこと追いかけようとしたけど、奏多に止められた。」
「ああ。それで正解だろ。あそこでおまえに追いかけられても、困るわ。」
「そうか。」
「その話のために、電話くれたの?」
「うん。それに声が聞きたかった。」
「俺の?」
「そう。」
「ふうん。」
「それだけ?」
「何言えば良いんだよ。」
「俺も和樹の声が聞きたかったよ、とか。」
「そんなの。……言うまでもない。」涼矢は、ハハッと笑った。和樹は心底ホッとした。
「明日も、会いに行くから。」
「うん。」
「涼矢。」
「ん?」
「愛してるよ。」
「ふざけんな。」
電話はそのまま切られた。
翌日、起きると家には誰もいなかった。時計を見ると10時を回っていた。父や兄の不在はわかるが、専業主婦の母がいないことは意外だった。ダイニングにはきちんと和樹のための朝食が用意されていた。そこにはメモも残されており、和樹は母が友人と観劇に出掛けたことを知った。
和樹は遅い朝食を終えると、シャワーを浴び、身支度をした。涼矢の家に行く時間は決めていない。何時でもいいとは言われているものの、昨日の今日で、昼前から行くのでは早すぎるだろうか。そんなことを考えながら、ワックスで髪型を整えた。洗面台に並ぶ家族分の整髪料や歯磨きを眺めては、ローションを買っていかなくちゃなどと考えて、ひとりで恥ずかしくなる。
結局、正午を少し回った頃に、家を出た。自転車で行くなら、昨日まで通っていた通学路を使って高校の前を通り過ぎて行くのが最短だが、途中の買い物を考えると気まずくて、わざと遠回りしてふだんの生活圏とは異なるエリアまで足を延ばした。そして、ドラッグストアに寄り、ローションを買った。ついでに店頭の安売りの菓子をいくつか。
ドラッグストアの前からメッセージを送信した。
[1時までには行けるけど、大丈夫?]
OKのスタンプがついたのを確認して、和樹は再び自転車にまたがった。
インターホンで到着を知らせると、そのまま上がってこいという返事があり、和樹は慣れた足取りで二階の涼矢の部屋に入った。涼矢はいなかったが、すぐに背後からお茶を持って入ってきた。
「よう。」と和樹は片手を上げる。涼矢は「うん」とだけ答えて、お茶の置き場を目で探していた。万一こぼすことを懸念したのか、パソコンテーブルに置くのは嫌な様子で、かといって部屋の隅の学習机では取りづらく、最終的にトレーごと床に置いた。和樹がベッドを背もたれにして床に座ると、涼矢が当然のようにその隣に並んで座った。
「お茶、どうぞ。」と涼矢が言った。湯呑みから湯気が立っている。
「涼矢が淹れてくれたの?」
「え、そうだけど。」
「まめだな。」
「そうか?」自分が到着するタイミングに合わせて、涼矢自ら緑茶を淹れてくれた。たったそれだけのことに、和樹は感激していた。思えば世話焼きの母親がいる自分は、来客のためにお茶を淹れた経験もない。
「サンキュ。」和樹はお茶を一口飲んだ。湯呑みを片手に持ったまま、「こっちも。」と言って、涼矢にキスをした。涼矢も抵抗しない。
「昼飯は?」涼矢が尋ねた。
「まだ。でも、朝が遅かったから、腹は減ってないんだ。涼矢は? あ、何か弁当でも買ってくれば良かったかな。お菓子は買ってきたんだけど……。」
「俺もさっき食べたばっかりだから平気。でも、お菓子は食う。」涼矢は和樹の持ってきたレジ袋を勝手に漁り始めた。和樹は慌てて止めたが、時すでに遅し。袋の中にはスナック菓子やチョコのほかに、更に中身の見えないようにしてある袋がある。それを発見した涼矢は「何、これ。」と言って、その袋を取り出した。
「見たまんまだよ。」
「中身、見えない。」
「開けてみればいい。」
涼矢は袋の中身のローションを手にして、それが何かを悟ると、しばらくフリーズしていた。和樹は開き直ってお茶を飲む。
「こういうのって、いくらするの。払うよ。」
「馬鹿、要らねえよ。」
「でも、二人で使うもんだろ。半額は払う。」
「それなら、この次な。」
「この間もそんなこと言って、結局水族館行かないし。和樹ばかり払ってる。」
「だから、そこにある分を使い切ったら、その次の時は買ってくれよ。」
涼矢はローションの容器を凝視した。「これを使い切るのって……。何回分……。」
「呟くな。」
次の瞬間には、涼矢はローションの蓋を開けていた。「へえ……。」手のひらに垂らしては、粘り気を確かめるように指を閉じたり開いたりするので、ローションが指の間に糸を引いた。
次第に見ているほうが恥ずかしくなり、和樹は「何やってんだよ。」とたしなめた。
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