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第19話 アクアリウム①

 結局、歩いて家まで帰った。痛む下半身をかばい、のろのろと歩いたので、この前走って同じ道を帰った時の倍以上の時間がかかってしまった。  家には母親の恵も兄の宏樹もいた。いつもと変わらぬ様子で夕食を食べたが、一つだけ違うのは宏樹が缶ビールを飲んでいたことだ。宏樹はそれなりに飲める体質だが、そんなに酒は好きではないらしく、家で晩酌をする習慣はない。 「ビールなんて珍しい。」 「ああ。友達が旅行土産に地ビールをくれたんだ。おまえも飲むか。」 「教師が未成年に勧めるなよ。」 「あ、おまえまだ未成年か。高校卒業したと聞くと、なんか成人してる気になるなあ。」 「しっかりしてくれよ、センセイ。」  そんな他愛もない会話をした。恵もそれをにこにこと穏やかに見ていた。穏やかな日常。あと数日の家族だんらん。父親は相変わらず残業でいないが、それを含めての日常の風景だ。  食後、宏樹はさっさとダイニングを出て行ってしまったが、和樹は恵の指示でそのままテーブルについていた。東京での生活費のことを説明され、通帳と印鑑を渡された。その二つは決して同じ場所にしまってはいけないといった注意も受けた。「大丈夫かしらねぇ。」と、いくら心配してもしたりない様子の恵だった。「どうしても緊急のことがあったら明に連絡するのよ。」明とは、東京に住む恵の弟で、つまり和樹の叔父だ。年齢は四〇代半ばだったと思うが、独身で自由気ままに暮らしているらしい。恵からすると「いい年してフラフラしている弟」で、心強いどころか和樹に悪影響を与えるほうが心配であり、「どうしてもの時」以外は接触してほしくなさそうだが、和樹は、昔からどこか自分と同じ匂いのする明叔父が好きだった。  ひとしきり恵の心配話を聞かされた後、ようやく解放された和樹は心身共に疲れて自室に戻った。そこには宏樹が居座り、和樹の漫画を読んでいた。「おい、勝手に俺の部屋入るなよ。」と軽くたしなめる。 「だいぶ片付いたな。」和樹の言葉は意にも介さず、宏樹が言った。 「送るものは全部箱詰めしたよ。あとは着るものだけ。ここに出ているものはこのまま置いていく。」 「これも置いていくのか。だったら、カズがいなくなった後にいくらでも読めるな。」宏樹は手にした漫画を掲げながら言った。その漫画は確か以前、涼矢に貸した記憶がある。 「勝手にしろよ。ただし、引き出しとか、あんまり開けんな。」 「俺は開けないけど、母さんはわかんないぞ。」 「だよな。」 「というわけで、餞別だ。荷物の中にしまっとけ。」宏樹は何やら小さい紙袋を和樹に放った。和樹が中を見ると、コンドームだった。 「おう。サンキュ。」和樹はとりあえず礼を言う。 「必要だろ?」 「そうだね。超使う。」 「とんでもない弟だな。ま、せいぜい、デキちゃいましたなんて言って、半年後に大学辞めて帰ってくるような真似だけはやめてくれよ。」  その時、スマホが振動した。涼矢からの電話だった。和樹は宏樹の手前、一瞬ためらったが、出ないのも不自然だと思い、電話に出た。 「和樹?」 「うん。」 「今、平気?」 「ああ。」 「明日、水族館に行かない?」 「明日? いいけど、なんで急に?」 「んー、思い出作り的な? あまりに、その、そういうことばっかりなのもどうかなと思って。」 「ああ。いいよ。」 「行きは電車で。それでまたうち寄って、チャリ乗って帰ればいいだろ。」 「駅で待ち合わせ?」 「うん。前と同じで11時でどう。あ、今度こそ俺が奢るからね。」 「はいはい、わかったよ。」  宏樹はニヤニヤしながら見ている。「明日のデートの相談か。カズは本当に次から次へと……。その彼女どうすんの、遠距離恋愛?」 「そういうことになるね。」"彼女"じゃないけどな、と心のうちで思う。 「カズに遠距離できるのかなぁ。東京に行ったら、とっとと新しい子見つけそう。」 「ひでえな。まあ、同じこと言われてるけど。」 「へえ、おまえのことよくわかってる子なんだな。同級生? 卒業式で告白されたとか?」珍しく宏樹が下世話な興味を示した。 「ああ……うん。」和樹は逡巡する。今ここで言ってしまおうか。宏樹なら、真摯に聞いてくれるだろう。それに、あわよくば協力が得られるかもしれない。遠距離恋愛をするなら、家族に協力者がいたほうが何かといいような気がする。でも。……でも。 「歯切れ悪いなあ。言えないような相手なの?」宏樹は鋭くつっこんできた。 「別に、不倫とかじゃないよ。ただ、まだ、つきあいはじめたばかりだし。」 「まだお試し期間中ってところか。それですぐ東京じゃあ、これからどうなるか、わかんないよなあ。」宏樹は勝手に解釈をしてうなずいている。 「そんなところ。」 「ま、がんばれよ。」和樹の肩を軽く叩くと、宏樹は部屋を出て行った。  結局、言えなかった。言えなくて当然だと思いながらも、結果的に涼矢のことを隠している後ろめたさで、和樹の気持ちは少し沈んだ。

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